三島由紀夫 『仮面の告白』

読了。
前半、後半の展開が、読む者を困惑させる。
前半が真実ならば、後半の展開は不可能なはず。
園子に、いったい何が課せられているのか?
そこで、おとぎ話として読んでみる。
主人公「私」が物語前半で告白するのは、呪われた自己、「美女と野獣」の野獣、「かえるの王さま」のかえるのような存在である。とする。
後半で突如現れる園子は、呪われた魔法を解くための処女としての役割を負わされている。となる。
<ほんとうに愛されたら、魔法は解けるでしょう>
「お慕いしております」の文が綴られた手紙を、園子から既に受け取っている。「愛されている」ことは確信している。
そして、園子に接吻する場面。
「私は彼女の唇を唇で覆った。一秒経った。何の快感もない。二秒経った。同じである。三秒経った。−−私には全てがわかった。」
「私」が「接吻」に賭けた意味は、魔法が瞬時にして解けるための護符だったが、果たして、おとぎ話は完成しない。それが<わかった>というのだ。
魔法をかけたのは誰か?
それを三島由紀夫は書くつもりはない、書けないのだ。書いたら最後、魔法は永久に解けない、と一縷の望みを残す。
そして、もはや魔法が解けることはないことが<わかった>ので、一部始終を遺そうとしたのが三島由紀夫の『仮面の告白』から始まる一連の作家活動だったといえようか。
物語終盤に、園子が発する不思議な台詞
「をかしなことをうかがふけれど、あなたはもうでせう。もう勿論あのことは御存知の方でせう」
作者は「私」の母にこんな台詞を言わせている。
「・・・園子さんのことね、あなた、もしかして、・・・もう・・・」
この相似が、何かを暗示していると想像してみる。
園子は、母を処女まで巻き戻した存在に擬したものとする。
魔法以前の時間まで巻き戻す。そして魔法を解こうとする。
しかし、時間を先送りすれば、母と園子は相似となる。
いずれにしても魔法が解けることはない。
物語はあらかじめ閉じられていることを知りながら作家活動を始めたことになる。
生と死をいかに閉じるのか、作家は、自身を物語として成就させるのに躍起となったのだろうか。

春!春!

というか、昨日が、春!だった。
どうする?図書館は行ったし、お天気いいし、どこに行く?
イタリア文化会館ヴィスコンティの『イノセント』を観に行こうと思っていたのに消えてしまった。いったい、どうなったというのかしら。
神田でも行って、古本屋めぐりでもするか?予算一人二千円くらいで。うーん、でも私、読みたい本があるのよ!本を読みたいの。どこかカフェで、本でも読みましょうよ。電車で違う街に移動。街はお洒落ではないが、カフェ良し。
とある高校横のカフェ、風を感じる席に陣取る。
風好し!音もなく、急ぐように、踊るように移動する風。これは、私の体内温度計によれば五月の風。
東京近郊の5月といえば、パラソル必携、半袖、日焼け止め厳守とものものしいが、ほんとうはこのように限りなく快適、幸せなのが5月、と私は信じている。というか4月なんですけど。
景色はない。薄汚れた白い塀。視界いっぱいボール飛散防止のネットが張られ。ネットの奥の青空を愛でる趣味はないので、ただひたすら風を感じつつ、ページを繰る。
パリから、ローマへと移動しようとしている物語。