阿修羅の顔

興福寺の阿修羅像の顔を見ては真人をおもう。どういうわけか。
とても気になる人、藤原鎌足の長男、真人(643-665)、僧名は定恵(貞恵とも)
653(白雉4)11歳で遣唐使として入唐し、665年帰国。同年のうちに、百済人の嫉妬により殺害される。とされる。
鎌足はどのような気持ちで11歳の息子を入唐させたのだろう。12年にわたる海外での生活、唐の先進文化のなかで仏教を学び、帰国を果たした時、母との再会は・・
彼の帰国は待たれたものだったのだろうか。
母は鏡王女(かがみのおおきみ)。一説によると、かの額田王の姉ともいわれるが、確証は得られないらしい。もと中大兄皇子の妃だったが、鎌足に譲られる。懐妊中だったともいわれる。
真人の父は中大兄皇子だったのだろうか。とすれば皇子として皇位を争うひとりとなったはずだが、懐妊中の妃を譲るとき、男子ならばお前の子として育てるように、女子ならば私の子として育てよう(だったか)との約束があったとかなかったとか。あらかじめ皇位継承権は剥奪されていた。
鎌足は鏡王女を正妻として遇したが、その本心はどのようなものだったのだろう。そしてその長男、真人との関係は。
妃の一人を家臣に譲るという奇怪な行為は何によるのだろう。ここからは想像に頼ってみる(鎌足の記録は意外に少ないらしい)。
何やらそこに純愛物語に近い気配を感じるのは私の勝手な妄想ということになるわけですが。
教科書にも採り上げられる額田王大海人皇子の愛が強調されがちだが、それは額田王の言葉があまりにも強すぎるせいではないかとも思われて。
その裏に隠されたもうひとつの物語に心ひかれて。ここで、額田王と鏡王女は姉妹である、と私は根拠もなく信じている。その一方で、中大兄皇子大海人皇子の兄弟説は否定している。
中大兄皇子は鏡王女を寵愛していた。ほんとうに愛していた。その妃が懐妊したが、その妊娠の意味を疑う。ほんとうに愛していたがゆえに、曖昧にすることはできず家臣に譲る。鎌足は半分醒めながらも妻を愛したのかもしれない。真人の死の4年後に鎌足は病気で亡くなるが、鏡王女は鎌足の許しを得て、山科寺を発願する。興福寺の前身である。鎌足の病気平癒のためとされるが、「許しを得て」という表現が物語るような気がする。悲劇の息子、可哀想な真人の魂の救済をこそ願いたかったのではないだろうか。
真人のほんとうの父は誰か、というと、大海人皇子以外にはいないように思う。中大兄皇子のものは全て欲しがる男。
天武天皇は鏡王女の死の床を見舞ったとの記録がある。そのとき既に鎌足天智天皇もこの世にいない。一度は愛した女の死の床を訪れ、最後の願いを聞いたのではないだろうか。そして鏡王女は「菩提を弔うこと」を願ったのではないだろうか。可哀相なこども、真人の。興福寺天武天皇の命により、篤く営まれる。
天武天皇は死にゆくひとを畏れる。不幸にしてしまった人の魂を。
阿修羅の3つの顔は何を見るのだろう。3人の父に、3度彼は見捨てられたのではなかったか。阿修羅を見て真人を思うのはそういうわけなのかもしれない。


ずいぶん勝手な妄想かも(特に、他に本当の父がいるとするあたり)・・・フィクションということで。


ちなみに阿修羅像や八部衆は734年の作とされ、真人をモデルとするには時間が隔たりすぎていて無理そう。でもそのあとも似たような悲劇が繰り返されているようです。