鳥の声幽かに物凄き

国立能楽堂 能『芭蕉』。
檜の舞台のすべらかな色艶、桧皮葺の密、鏡板の松の緑が沁みる。
秋の気配、幽かに風が吹き渡る。

すでに夕陽(せきよう)西に移り
山峡の陰凄まじうして
鳥の声幽かに物凄き
夕べの空もほのぼのと 夕べの空もほのぼのと
月になり行く山陰の 寂寞(じゃくまく)たる芝の戸に
芭蕉に落ちて松の声 芭蕉に落ちて松の声 
徒にや風の破るらん
見ぬ色の 深きや法の華ごころ 深きや法の華ごころ
染めずはいかが徒に その唐衣の錦にも 
衣の珠はよも繋けじ 草の袂も露涙
移るも過ぐる年月は 廻り廻れど泡沫(うたかた)の
あはれ昔の秋もなし あはれ昔の秋もなし
月も妙なる庭の面
風の芭蕉や伝ふらん 風の芭蕉や伝ふらん
あら物凄の庭の面やな あら物凄の庭の面やな
いや人とは恥かしや 実は我は非情の精 芭蕉の女と現れたり
土も草木も天より下る 雨露(うろ)の恩を受けながら 
我とは知らぬ有情無情も おのずからなる 姿となりて 
さも愚かなる 女とて
それ非情草木といつぱ実は無相真如の体
一塵法界の心地の上に
雨露霜雪の象を見す
しかるに一枝の華を捧げ 御法の色を表はすや
一花開けて四方の春 のどけき空の日影を得て
楊梅桃李数々の 色香に染める心まで 諸法実相隔てもなし
水に近き楼台は まづ月を得るなり
陽に向へる花木はまた 春に逢ふ事易きなる
その理も様々の げに目の前に面白やな
春過ぎ夏闌け 秋来る風の音づれは
庭の荻原まづそよぎ そよかるる秋と知らすなり
今宵は月も 白妙の
氷の衣 霜の袴
霜の経(たて)露の緯(ぬき)こそ弱からし
草の袂も ひさかたの
ひさかたの 天つ少女(をとめ)の 羽衣なれや、
これも芭蕉の葉袖を返し 返す袂も芭蕉の扇の
風茫々と物凄き古寺の 庭の浅茅生 女郎花刈萱
面影うつろふ露の間に 山颪(やまおろし)松の風
吹き払ひ吹き払ひ
花も千草も散り散りに 花も千草も散り散りになれば
芭蕉は破れて 残りけり。                         (抄)

現れた芭蕉の精なる女人の面影、思えばこの世は芭蕉葉の夢のようなもの、袖を翻し舞う女は風の音に消える。こころを持たぬ草木の、「我とは知らぬ有情無情、おのずからなる姿」
夢うつつの視界の左端からしづしづと橋掛かりを踏む白足袋の足取りは人のものともみえず、四本の柱のなかからひんやりと冷たい風が吹き渡る。翻る袖、草木の舞。
舞台は自然を映す、謡と型に保存された魂が舞台の上にひととき開く、能の時間。