真の、野守の鏡みせたまへ

十一月末日、終の秋の青天の能楽堂へ、能「野守」。
狂言がはじまるとともに睡魔に捕り込まれ、予眠の刻。
幕間は中庭の萩、もみじ、ススキ、秋草に風は優しい。みあげればネムノキが空に届かんばかりに揺れている。

脇正面の席に戻ると調べの音が聴こえはじめる。濃紫の絹に葉群を頂いた作り物が橋掛かりをゆく。
前シテは白髪、黄金に輝く皺を刻んだ翁面、金茶の衣に杖、濃紫と厳かな補色を為す。

春日野の、飛ぶ火の野守出でて見れば、
これこそ野守の鏡と申して隠れなき水にて候へ
あら面白や野守の鏡とは、
真の野守の鏡とは、昔鬼神の持ちし鏡をこそ、野守の鏡と申し慣はして候
昼は人と見えてこの野を守り、夜はまたこれなる塚に入りけるとなり

塚に入る翁。
脇正面の席から、作り物の塚に入った翁がすぐさま装束を取り替える様が窺える。舞台では僧と村人による語りが進行している。装束を替える様が面白い。次々と差し入れられる装束、紐、帯を結び、整え、猩猩緋の鬘も差し入れられる、変身。

立ち寄ればげにも野守の水鏡、影を写していとどなほ、老いの波は真清水の、あはれげに見しままの、昔の我ぞ恋しき。げにや慕ひても、かひあらばこそ古への、野守の鏡得し事も、年古き代の例(ためし)かや、年古き代の例かや。
昔 御狩のありしに、御鷹を失ひここかしこを尋ね給ひしにかの翁申すやう、さん候これなる水の底に御鷹のあるべきとて、狩人ばつと寄りて見れば、正しく水底に
あるよと見えて白斑の鷹、あるよと見えて白斑の鷹、よくよく見れば木の下の水に映れる、影なりけるぞや鷹は木居にありけるぞ。
聞くにつけても真の、野守の鏡見せ給へ。
それは鬼神の鏡なれば、いかにして見すべき。
さてや鏡のあり所、聞かまほしきに春日野の、
野守といふも我なれば、
鏡はなどか、
見せざらんと、
怖ろしや打ち火輝く鏡の面に、映る鬼神の眼の光、面を向くべきやうもなき
怖れ給はば帰らんと、鬼神は塚に入らんとすれば、
暫く鬼神待ち給へ、夜はまだ深き後夜の鐘
一矜羯羅ニ制託迦、三に倶利伽羅七大八大金剛童子 東方降三世明王もこの鏡に映り、または南西北方を写せば、八面玲瓏と明らかに、天を写せば、非相非非想天まで隈なく、
さてまた大地をかがみ見れば、まづ地獄道、まづは地獄の有様を現はす一面八丈の浄玻璃の鏡となって、明鏡の宝なれ、すはや地獄に帰るぞとて、大地をかつぱと踏み鳴らし、大地をかつぱと踏み破って、奈落の底にぞ入りにける。

野守の厳かな翁から鬼神への変身は鮮やか。耀く鏡で天地を、大地を照らす鬼神の眼の力。喜多流の謡は朗々と調子良く、言葉は魂を帯びる、四本の柱に囲まれた空間に鬼神が降りる瞬間。大地を踏む音、大地を踏み破り、奈落の底へ...奈落の底とは何処だろう。大地を地獄といい、瞬間垣間見せるこの世の真の姿。
澄んだ水底に見える白班の鷹も、水面に映った木居の鷹も同じとする鏡の両面。両面は夢と同じく空間から消えてゆく。舞台は閉じて空白に還る。