『三島由紀夫・昭和の迷宮』 出口裕弘

三島由紀夫・昭和の迷宮

三島由紀夫・昭和の迷宮

愛情は、多くのことを隠す。三島由紀夫を語るには薄すぎるほどの本。書いておくべき、ほんの少しのこと。
例えば、『葉隠』。私のような素人は、困ったようにそっぽを向いてしまういくつかの事柄について。
これは、明治維新以降、完全に忘れさられたものではないか。
忌まわしい、悪しき、恥ずべきものとして。
しかし、このような世界が現にあったことを出口氏は私たちに示してくれる。氏も、気が進まないのを隠さない。
しかしそこに「死」と「衆道」「愛」があることを氏は指摘する。これこそ三島が活路を見出すべき道であると、我々も納得せざるをえない。

『沈める滝』についての考察。
この小説で三島は、魔法が解けるさまを描いた。
「やさしさ」、そして「涙が流れた。」
しかし、魔法が解けたにもかかわらずハッピーエンドとはならない。
「あの人は、感動しないから、好きなんだ。」

出口氏は『沈める滝』は、男と女の物語として読み通すことができる、と言う一方、田中澄江氏のエッセーを引き、「一篇の小説はずいぶんさまざまな読まれ方をするものだ」と困惑をあらわす。
私も、出口氏のように読みたいのはやまやまだが、やはり、少し違う。女主人公、不感症の顕子は、三島の母を擬したものだろう。性的描写は、比喩として用いるにすぎない。
<あの人は、感動しないから好きなんだ>

聖なる母を成就する。

白薔薇を持って弔問に訪れた客に母が言ったという。
「お祝いには赤い薔薇を持って来て下さればようございましたのに。公威がいつもしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んであげて下さいましな。」
この台詞が言われたとき、物語は幕を閉じたのだろう。

本を閉じると、『昭和の迷宮』とタイトルが大書きされている。
精巧に造られた迷路の中央。三島由紀夫が少年に「しっ」と合図して座らせる。(公威少年だ)ここにいれば大丈夫、とでもいうように。そんな画が一瞬浮かんで、消えた。
そこで2人は2人だけにしか解らないような冗談をいいながら、笑っているのかもしれない。

もう1点、出口氏は「体内時計」という観念を用いて三島由紀夫を説明するのが面白い。表紙にも、ゼンマイ仕掛けの時計が採用されているように。ゼンマイを巻き戻したり、ギリギリと巻きすぎたりしすぎたのかもしれない。ゼンマイが切れる瞬間に、緞帳が降りる仕掛けを見せたくてたまらなくなったのだろうか。(劇作家として生きれば、もっと生きられたかもしれないのに)。しかし彼は劇作家として死んだのだ。自作自演の。