倉橋由美子 『わたしのなかのかれへ 上』

1960年から1965年にかけての、雑誌の紙面に向けて書かれたものが収められています。

わたしのなかのかれへ―全エッセイ集 (1970年)

わたしのなかのかれへ―全エッセイ集 (1970年)

ですからそれぞれの読者層に合わせ、様々な文体で書き分けられているのが楽しいエッセイ集です。
若さにまかせて、結構オープンに自身をさらしているのがほほえましい。
小説にユーモアを持ち込まない主義の氏も、エッセイともなるとユーモア全開(彼女独特の)で読む者を笑わそうとなさいます。こちらは妙に(笑ってはいけない)などと念じているものですから、たまらず横隔膜をひくつかせるはめに陥ってしまいます。
「ころぶ話」などといって、たびたび階段を転げ落ちる自身を描写するさまは、小説の登場人物をこづきまわす視点に似ています。恥ずかしい、などという凡人の感情を全く排して書く力は既に完全装備しています。
そのなかで、「ロマンは可能か」という題で中村真一郎氏に向けて書かれた手紙の形をとった文があります。このような、尊敬する人に向けて書かれたものは突如として少女のようになってしまうところは面白い。このような点は後に『聖少女』の創作の下敷となったことでしょう。
ビュトールと新しい小説」と銘打って中央公論社刊・世界の文学49・月報(1964年)にビュトール論を載せているようです。種明かしはしない、と私は思っていたのですが、『暗い旅』(1961年)が世に出て、論争があり、その3年後に、もちろん依頼に答えるかたちにでビュトール批評をしています。種明かし、弁明ではもちろんなく、純粋に論を展開しているわけです。そのなかでやはり「しかけ」という語を用いていますし、次のように述べています。
ビュトールは、読者にさししめそうとする想像された[もの]が同時にその[もの]を認識することであり、読者に提供しようとする小説が同時にその小説を書くことの考察であるような、きわめて精巧な小説をつくりだすことに成功しました。」
これで十分でしょうが、この時点で既に『暗い旅』論争は虚しいものとなっていたでしょうし、孤独にビュトール論を展開しているのをみれば、誰一人『暗い旅』を正しく読んだ人がいなかったことを証明するようです。
わたしたちは簡単に誤読をしますが、疑問の奥に何かが隠されていると知るべきではないでしょうか。