さつきのいつかのひ 日本書紀

さて、GWも終わり、日常が帰ってきました。休暇もいいですが、日常もまた良いものです。休みの間はかえって忙しく、PCに向かう時間もないのでタイトルだけ放り込んで、久しぶりに本棚からとりだしたのは日本書紀。なかなか、ぎょっとする記述のオンパレードなので、読んでいたら日が暮れそう。

日本書紀〈4〉 (岩波文庫)

日本書紀〈4〉 (岩波文庫)

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

日本書紀〈5〉 (岩波文庫)

時計絡みの記事がありました。

斉明天皇六年五月 皇太子(中大兄皇子)初めて漏剋(ろこく)を造る。民(おほみたから)をして時を知らしむ。

中大兄皇子が、人々に時刻を知らせるために水時計を造ったのだという。中国では古くから使われており、銅壷に湛えた水が小孔から漏出するにしたがって、中に立てた銅箭の目盛が水上に現れるのを読みとる仕掛け。目盛は昼夜十二時を各四剋ずつに刻んであるもの。
不思議な童謡(わざうた)も。
斉明天皇六年 百済救援の頃

まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが

諸説あるが、未だ解明を得ない。要するに征西の軍の成功し得ないことを諷する歌に相違ない。とのこと。もちろん原文は全て万葉仮名、つまり漢字で書かれている。頑張ってみましょうか。

摩比ラ(羅にしんにょう:巡るの意)矩都能俱例豆例於能幣陀乎ラ賦俱能理歌理ガ(我に鳥:がちょうの意)美和陀騰能理歌美鳥能陛陀鳥ラ賦俱能理歌理ガ甲子謄和與騰美鳥能陛陀鳥ラ賦俱能理歌理ガ

平仮名で記す限り意味不明ですが、こうして漢字で表記してみると、やはりどこかの歌ではないか、という気がしてきます。日本語ではない、としたほうが早いのではないでしょうか。
天智天皇七年

五月五日(さつきのいつかのひ)に、天皇(すめらみこと)、蒲生野に縦猟(かり)したまふ。時に、大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)・内臣(うちつまへつきみ)及び群臣(まへつきみたち)、皆悉くに従(おほみとも)なり

ここで詠われたのが額田王万葉集

茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流(万-巻1-20)

それに応えたのが大海人皇子

紫のにほえる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾恋目八方(万-巻1-21)

天智天皇八年

夏五月(なつさつき)の戊寅(つちのえとら)の朔壬午(みづのえうまのひ)に、天皇(すめらみこと)、山科野(やましなのの)に縦猟(かり)したまふ。大皇弟(ひつぎのみこ)、藤原内大臣(ふじはらのうちつまへつきみ)及び群臣(まへつきみたち)、皆悉(みなことごとく)に従(みとも)につかへまつる。

天智天皇十年

夏四月の丁卯の朔辛卯に、漏剋を新しき台(うてな)に置く。始めて候時(とき)を打つ。鐘鼓(かねつづみ)を動(とどろか)す。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇の、皇太子に為(ましま)す時に、始めて親(みづか)ら製造(つく)れる所なりと、云々(しかしかいふ)。

11年越し(?)の漏剋デビュー、余程嬉しかったのでしょうね。
天智天皇十年正月には佐平余自信・沙宅紹明を法官大輔(のりのつかさのおほきすけ)に、鬼室集斯を学職頭(ふみのつかさのかみ)に、その他数人は兵法担当、鬼室集信等を薬担当に、その他五経担当、陰陽担当、50人以上を帰化人に担当させた。

天智天皇の事跡をみてみると、彼はかなり科学を重んじる人だったようですね。戦争なんか大嫌いで、白村江の戦いも、いやいやながら形だけ、といった趣が・・
額田王大海人皇子の恋愛。うーん、どうでしょうねえ。私は全くロマンを感じないのですが・・大海人皇子は、天智天皇の娘を少なくとも4人は娶ってしまっているのですし(そのほかにもたくさんの女性と)、それはかなり強引なものだったのではないのでしょうか。天智天皇の臨終に際し、髪をおろして吉野に隠棲した際、「虎に翼をつけて放したようなものだ」と噂された彼は、実に怖れられた男だったはず。彼と渡り合えたのは皇后だった持統天皇、そして額田王くらいだったかもしれません。額田王といえば采女で身分は決して高くないものの、その類稀な歌、言葉の顕現が恐れられたのでしょうね。
最後に、額田王の謎の歌

莫囂円隣之大相七兄爪謁気 吾瀬子之射立為兼五可新何本(万-巻1-9)

下の句は「わがせこがいたたせりけむいつかしがもと」と読まれる、ということですが、さて・・

補訂版 萬葉集 本文篇

補訂版 萬葉集 本文篇

本文篇。万葉仮名に平仮名の傍訓がほどこされています。