LA MODIFICATION

まだ読んでいるこの本。http://d.hatena.ne.jp/petersham/20100419
久しぶりに紀伊国屋で買った本は、白い皮のカバーにまだ包まれている。
間に何冊もはさみながら、私の真ん中にいつまでも居座ろうとしている、読み終わるのを先へ、先へと延ばしたがるかのように、ゆっくりと、列車の揺れにあわせるように
「きみ」は移動しようとしている。パリからローマへと。愛する人に会うためだけに。
「きみ」は執拗に、共に運ばれる人を観察し、書き留める。その一方で意識が形を、全体像を捉えようと、その線路の上を行きつ戻りつし、パリを、ローマを、過去を、未来を反芻し、そのために細部を、とるに足らない、些細なことを書きとめながら。
何故私は今これを読んでいるのだろう?
全くの偶然なのか、文脈のなかで、私の。倉橋由美子、そこが起点なのはあきらかだ。モラヴィア三島由紀夫、それはあまり関係がない。出口裕弘氏からバタイユに至り、A・コジェーヴ、J・デリダ、P・クロソウスキー、M・フーコー各氏(短いテキストを読んだにすぎない)の苦悩、キリスト教世界の抱える愛の苦悩。三島が関係がないとはいいきれない、形は違えど、結局同じ苦悩に至った男。多くの日本人は免れているはずの神との苦悩について。と、時間。
その描写を、僅かな光を(そして闇も)拾うかのような描写を、なぜ私はこんなに好むのだろう。「きみ」の視線が追うもの、みようとするもの、捕らえようとするものを。
時間。その列車、軋みをあげ、揺れながら進む鉄の箱は、人を乗せ、時間も乗せて何処かへ運ぼうとしているのだ。見えるものと見えないもの、見えるものをとおして見えないものを見ようとしている「きみ」を書こうとしている人。そして「きみ」を書く人の言葉を、苦悩を、知りながらフランス語を、見事な日本語に置き換えた清水徹氏の言葉と視線も含んで、私はこの小説を好むのだろうか。そしてこの小説に恋して『暗い旅』を書いた倉橋由美子は、予期せぬ方向に押し流された。
物語は終盤にさしかかり、軋み始めた。形は、どうなるのだろう。物語は何処に運ばれ、どのような形で終わるのか、私はまだ知らない。