いしいももこ

私が認識した最初の文字列ではないだろうか。
自分の名前を読んだり、書いたりする以前に、「いしいももこ」は「いしいももこ」だった。
うさこちゃんシリーズの表紙には、どれも「いしいももこ・やく」と書かれてあった。だからまだ字が読めず、本文を読めないときから、その文字列にはなじみがあった。
私の記憶は、3歳半で弟が生まれるあたりから突如始まっている。3歳になろうとする頃に、それまで住んでいた町から、祖父母とともに3年間暮らすことになるその家に引っ越してきたのだ。その引越しは私にある種のショックをもたらした。たびたびわけもなく泣いて、母や祖父母をこまらせた。
その夜、なぜその部屋で寝ていたのだろう。いつも布団を並べる部屋ではなく、小さな本棚の置かれている部屋でひとり(?)私は寝ていた。寝付かれず、本棚の本の背表紙を、一心に見つめていた。
それは『ノンちゃん雲に乗る』石井桃子著・中川宗弥画の、水色の表紙、片側は空色の丸、もう片側は黄色の丸のいたってシンプルな装丁の本。父が姉のため(子供たちのため)に買ってきた本の一冊だ。石井桃子と漢字で書かれているが、それを私はいしいももこと同じだと知っていたし、大変可愛い名前だとも思っていた。
その夜、私はほとんど寝なかったのだろうか。夜が白々と明けてくると、鴨居に私のよそいきのワンピースがかかっているのを認めた。眠りかけたころ起こされたのだったか。今日はなんだか様子がおかしいと思っていた。よそいきを着せられ、祖母に連れられて外へ出た。霧の濃い、ほとんど前方が見えないほどの、霧の朝だった。
おかあさんはどうしたのだろうという考えに至らない。母がいないのは、その時が初めてだったのだ。連れられるがままに見知らぬ家の2階に上がっていくと、母が布団に寝ていて、私を笑顔でむかえた。
真っ赤な赤ん坊が、たらいで産湯をつかっているのを、見た。それは私の弟だった。
この記憶は切れ切れで、それぞれが短く、その夜が、その朝と繋がることを、今はじめて知った。
「いしいももこ」という人は、要所要所で、私を窮地から救ったのではないのだろうか。

ノンちゃん雲に乗る (福音館創作童話シリーズ)

ノンちゃん雲に乗る (福音館創作童話シリーズ)