ミシェル・ビュトール 『即興演奏』

『時間割』も入手済みだが、こちらを先に読んでしまった。
図書館から借りたので、優先順位が先になったのだ。
副題に「ビュトール自らを語る」とある。書かれたものではなく、語られたものなのだ。
ジュネーヴ大学での講義−引用のための本を持参するくらいで、メモもノートもなしに話した。抜群の記憶力の持ち主で、しかもきわめてゆっくりと、明晰に話す−母親が耳が聞こえなくなって、唇の動きで理解してもらう訓練をしたので、そんな話し方になったのだという。ジュネーヴ大学では自作について語ることはなかったが、最後の1年に自作について語る公開講義が行われたのが、本書のもととなる。(訳者によるあとがきより)
書かれたものより、はるかに解りやすい表現を用いる。書かれたものも決して解りにくくはないが(と言い切ってしまっていいか、どうか)、ある根気のようなもの(仕掛け)を強いる作家ではあるかもしれない。哲学的言語を意識的に排する方法を、語る、書く、両面で実践するのだ。
その思想は希望であろう。世界が互いに補い合う存在であること、文学、美術、音楽、演劇、それら芸術は我々の生きる世界を補うものであること、氏の言葉は優しい。そしてその言葉が世界に読まれることを、翻訳というまたひとつの補う仕掛けを通過して読まれることを願うのだ。例えばエジプト、アメリカ、ドイツ、そして日本について氏が語る時、私たちは指し示されているのを感じる。その翻訳が清水徹氏によってなされることを意識しながら、そのことを語る。その瞬間に氏は、漢字仮名まじりで縦書きの、右から左に読まれる日本の書物の形に置き換えられるのを想像しているはずなのだ。言語の中に歴史が含まれること、書かれたものは、過去を含みながら未来へと時間を飛び越えていくものだから。
私が今現在読み終えた本書が出版されたのは2003年(原著は1993年)だが、図書館の予約で取り寄せたこちらは読まれた形跡がない。糸しおりは製本所で入れ込まれたページに挟み込まれたままだった。
本書について説明するのは諦めたが、『心変わり』を翻訳した清水徹氏と、中国語に翻訳した中国人女性についての言及があり、それは私の興味を引いた。清水氏は「どうやって中国語に翻訳するのだろう」と言われたようだが、中国語を知らない私は、漢字だけで書かれた『心変わり』を見てみたいと思った。読むのは困難かもしれないが、それを見るとき、詩の変奏のように見えるのではないかと想像するからなのだが。漢字の羅列による『心変わり』はいつ、どこを開いて眺めても、私には愉しいもののように思われる。

即興演奏(アンプロヴイザシオン)―ビュトール自らを語る

即興演奏(アンプロヴイザシオン)―ビュトール自らを語る