3日と続かないだろう、と思われたブログも100日目。
だからどうしたということもないが、百を素通りすることができない。百を祝うなら、このような方http://www.eel.co.jp/seigowchannel/
白川静氏、生誕100年。
漢字の森、大いなる漢字の行列、行進のなかに分け入り、遂にはその森に吸い込まれたかに見える・・
氏の漢字研究の元に『万葉集』があったことを知ったときは驚いた。

初期万葉論 (中公文庫BIBLIO)

初期万葉論 (中公文庫BIBLIO)

私が自身を女と認識したのは出産を終えた時だった。ある抽象的な画像が眼前に浮ぶので、これは俗にいわれるマタニティ・ブルーなのだ、これはホルモンの仕業なのだから、私は一生ホルモンに支配されるのだ、などと観念していた。その抽象的な画像は、私にこう伝えていた。「コドモハワタシガソダテナケレバナラナイ」
それと同時に知ったのは、私という存在は母の子宮から生まれ、母はその母から、とずっと遡り、生命の起源にまで遡ることのできるものだ、ということだった。(これは生けるもの全てにいえること)そして未来に先延ばしにすることも。
日本について知りたくなったのはその頃のこと。日本最初の書物とされる古事記日本書紀古事記のほうが読みやすい。四国について、「四面(よおもて)あり」などと記述するのが面白い。
歴史研究書を読むが、どうもおかしい、語源、地名起源の記述など、疑問は山積するが、納得が得られない。日本書紀が、歴史を妨げるようなのだ。随分苦心してはめ込まれたパズルのような・・まるではみ出してしまっている箇所も、不自然なくらい真に迫る箇所も。百済百済の記述の多さを説明するものはいない。
それを補うのが『万葉集』ということになる。漢字の時代。東洋にひしめく国々が、漢字を用いたことだろう。その形のなかに、音のなかに意味を響かせながら、何かを隠しながら、あるものにはそれが見え、あるものには見えなかっただろう。あるものには聞こえ、あるものには聞こえなかっただろう。

日本書紀に韓囀(からさえずり)という面白い表現が出てくる。こちらが聞き取れない外国語を話す人を揶揄するかのような表現なのだが、韓囀を話す人がこちらの言語、あるいは複数の言語を知る場合、優位に立つのはどちらかと思うと、なかなか怖ろしい言葉のような気がする。