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『読書のユートピア清水徹著(1977)

読書の開示するユートピア=どこにもない空間、そこに交錯する時間と夢とエロス。大岡昇平吉田健一等の作品を通して、その構造を緻密に読み、文学的時間の特性を尖鋭な方法意識で問う
文学における<時間>とは何か

帯にはこのように書かれています。届いた時にちょっとがっかり、と言ったのは、清水氏といえばフランス文学でユートピアを論じるものとばかり思い込んだあてが外れたからなのでしたが。
○<起源の小説>大岡昇平『幼年』『少年』
いきなり内蔵をとりだしてみせる有能な外科医のようなやり方で

私は自分で何者であるかを知らない。この或いは解決しないまま死ななければ分らない難問に、近付こうとしているのである。『幼年』
自分を大事にする気が私には最初からなかった。アイデンティティを求める気持ちは、性分としてなかったか、少年期のどこかで失ったらしい。だから洋吉さんよりも六年長生きしながら、まだ「私」が何であるか、わからずにいる。だからこんな自伝を書いたのである。『少年』

泣き出しそうな、もう既に泣いているかのような呟き
清水氏はこう結ぶ。

《事実》という途方もない謎、言語がそこから産みだされてくる謎の起源。大岡昇平の『幼年』から『少年』へとすすめられた努力は、彼の生の起源、小説の起源、彼の文学的活動の起源、そして言語の発生源という四重の起源へと迫ろうとする「起源の小説」なのである。

この、短いといってよいテキストの中で清水氏は驚くような言語表現を使ってみせるが、あえてここには載せない。

○<宴のあとに>吉田健一論1
ヨシケン(という人もいるようです)作品は、倉橋由美子の影響でいくつか読んだが、彼女ほどいれこむことにはならないだろう。ただ、彼女があえて吉田健一という名をことさらに強調したのかは・・

○<時間、この至高なるもの>吉田健一論2
『本当のような話』という題名の命名に私は驚くわけですが。
渡辺慧の『時』に、吉田健一の時間論と結論的にはほぼ同一視できる文章があるそうで

永遠とは限りなき長き時間ではない。それは時間の長さという点からいえば、むしろ限りなく短き時間である。しかしそれは止まった一点ではなく動く点である。休みなき持続である。飽くなき創造である。ある所より始まり、ある所に止まるということなき常住の現在である。


○《聖なるもの》のまねび--古井由吉
《クロノス》と《カイロス》で論を展開

○迷宮のなかの散歩--武田泰淳『目まいのする散歩』
ポール・ヴァレリーの詩論、散文と詩とのちがいを歩行と舞踊のちがいに喩える論で展開。そしてこう結ぶ

散文は散歩として書かれ、あるいは散歩として読まれるとき、悲劇としての時間の克服はできぬものの、悲劇としての時間をいわば括弧でくくる、と。


○小説言語の誕生--清岡卓行
清岡卓行の小説はどれも一種の『失われた時を求めて』である。と。

清岡卓行は、書くという行為によって、想像力の場において、死から生への推移を繰り返し辿り直している。それはじつは、繰り返し死に接近し、死に親しみながら、同時に繰り返し死を遠ざけようとする両面作戦にほかならない。たえず死に侵された生を生きているぼくらにとって、《ふるさと》は、そういうかたちにおいてしか定位しえぬものなのである。


読んだのはここまで
一晩に一人の作家の分だけしか読めぬように書かれているように思われて。