森のほうへ

庭園美術館「森と芸術」展。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/mori/index.html
新緑を眼に入れたくて都心のオアシスへ。「庭」「森」などの語に単純に反応しただけかもしれません。いったいどんな森を見せてくれるのでしょう、アールデコの邸内へ。
デューラーの版画《アダムとエヴァ》から。森=楽園?人類の歴史は森からの追放だろうか、そうかもしれない、などと、小部屋から小部屋へ、森の小道を曲がりくねるように。コローの描く水面は滑らか。シュルレアリスムの森、ルネ・マグリットの切り取る記憶はいつも懐かしい、森はいつだって其処にある。エルンストの森、言語を失う太陽の耀きと迷路のかたちの森の記憶。川田喜久治氏のゼラチンシルバープリントによるボマルツォ公園『聖なる森』の一枚一枚は怖ろしいが、当のボマルツォ公園はもっと呑気な廃墟なのを知っている。庭は受け入れてくれる、わたしたちがそこで遊ぶのを。しかしどうだろう、夜の庭は、夜の森は、其処はどのような処なのだろう。シェイクスピアの「真夏の夜の夢」を摺り出すとき、そこに顕れる夢の記憶は。版画は写真に似ているだろうか。ネガをポジに裏返す瞬間、光は闇に闇は光に、その濃淡はその境界は、夜と昼は。写真は対象を否応無く露出せずにいない。絵画は、問いへの応答に似て、如何様にも応えることは可能でありながら、どの様にみえるかはまた別の問題。版画は絵画と写真の中間に位置するのだろうか。曖昧と明晰の間、夢と現実の間、しかしその間と間と間の間は?「あいだ」という語の果てしない曖昧さの間で。
庭園に出る。憩う男女、裸足で芝生を駆ける姉妹、あたたかな陽だまりに桜色の花びらが落ちてくる。止むことのない騒音に囲まれた都心の楽園。
緑が未だ足りない。森の保存場所のようなお隣の自然教育園の森を歩きたいけれど「疲れた」という人を無理矢理引っ張っていくわけにもいきません。森まであと少し。
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