重い本 『わたしのなかのかれへ 上』 倉橋由美子

ちっぽけな1冊の文庫本が、読み進むにつれてずしりと重みを増していく。
「ばら色」から「暗黒」へ、そして小さな「希望」という言葉を残すまで。
種々の刊行物に書かれたエッセイを集めた本書

わたしのなかのかれへ―全エッセイ集 (1970年)

わたしのなかのかれへ―全エッセイ集 (1970年)

最初は1960年、『パルタイ』受賞の際「明治大学新聞」に寄せられた文章。「ばら色」という言葉が用いられていて、その意外性に少し驚く。
「受賞という事件が私の視界をどんなばら色に染めあげたか」
「作者の生み出したものが、作者のものでありながらもはや作者にも所有しきれない固く充実した存在をもちはじめ、逆に作者に復讐するようになる」
奇妙に予言めいた言葉を既に記してしまっているようだ。
予言は『暗い旅』で本当のこととなってしまう。ビュトールが小説に仕掛けた「しかけ」という手法に恋した作者は『暗い旅』に「しかけ」を仕掛けるが、ビュトールの「しかけ」を知らぬ人々は『暗い旅』の「しかけ」に気が付くはずもなく、作者に「模倣」「盗作」という烙印を押し付けてしまう。
1964年に至って「ビュトールと新しい小説」(中央公論社刊・世界の文学・月報)にて一応の弁明を試みるが、いよいよ苦悩は深まるばかりのようだ。
「性と文学」(読売新聞夕刊1964/3/30)は痛ましい作家の心情を吐露している。
「わたしはこのあたえられた機会にもっとも個人的なことについて語らせていただこうと思います。そして生きた人間をまえにしてこんなふうにして書く機会はこれを最後としたいのです。」
「わたしはF・カフカという穴から想像力の世界にはいりこんだ人間ですが、世間のまっとうな人たちにいわせればこのカフカなんか不愉快きわまる「なまけもの」で、人間というより虫なのです。コミュニストたちがこんなわるい存在は火刑に処すべきだと考えたのは当然のことです。そしてわるい夢を分泌して小説を書くことが生きることであったカフカ自身も、自分の文学が焚書にされて消滅することをなによりも望みながら死んでしまいました。」
こんな言葉でカフカを断じているのは、自身をカフカの相似形とみなし、自分自身も消滅したいと絶望しているのだ。カフカの『判決』『審判』など、その罪を知らずして逮捕、処刑される作品に、自身が近付いていくという不思議な符合。
「完全に消滅すること、これがわたしの最大の希望です。」
と結んでいる。
「サムシング・エルス−わたしとジャズ」(スイング・ジャーナル1964・4)
ここでは氏が何故モダン・ジャズに惹かれるかを述べている。
「モダン・ジャズの魅力の大半は、典型的な《アウトサイダー》に分類される黒人たちの、自己救済のための叫び声という性格にあったのではないか?」
これは、作家が何故書くかという問いに対する答えにもなると思う。
「死後の世界」(太陽1964・7)
「わたしは死んだ。まるで連結器がはずれたようだった。そのときからはじまった大脳の腐敗と崩壊をわたしはおぼえている。そしてなかなか腐らない生殖器のことも・・・」
「わたしにわかることは、わたしが消滅しつつある意識ではなく消滅することについての意識であるということ・・・いつからこうなったのか?たぶんわたしが書きはじめたときからだろう。そして、そのときからすでにわたしは死んでいたのだ・・・」
凄い。自身の意識を見つめる力。そしてこのときから『聖少女』の構想は形を顕しつつあるようだ。
ロレンス・ダレルとわたし」(河出書房刊・世界文学全集・月報1964)
「たしかにかれの文体は多くの作家からの盗品でできあがっている。だからかれの文体は美しい。気にいったものはみさかいもなくぬすみとり、盗品で飾りたてるべきだ。」
「これが書くということなら、それはひとつの悪癖のようなものだ。そしてわたしもまたその悪癖の持主だった」
「『ジュスティーヌ』から『クレア』にいたる四部作について、ダレルはアインシュタイン相対性理論による文学空間の構成を語っているが、形式に関するこうした思いつきに熱中する無邪気さは、二流の才能に特有のものかもしれない。」
「ダレルはいまやカフカプルーストジョイスと並ぶ神々のひとりである。」
着々と、書くべき意味を拾い集める。
「層雲峡から阿寒への道」(旅1965・7)
「美岬浜というところで人間の赤ちゃんの手ほどあるヒトデを拾いました。骨よりも固く乾いた哀しみに似ていかにも北方の海にふさわしい青白い星でした。」
詩人が、魂を拾うの図。
「日録」(1965)
「9月14日 わたしの五冊目の本が出ました。『聖少女』。じつは前日、新潮社に電話したとき、係のかたが、チョウドイマ(製本所カラ)デテキタトコロデス−まるで長いあいだ服役していた人間が「出所」してきたとでもいうような感じでした。」
「小説を書いて売ることは自分の顔の皮を剥いで売ることに似ています。ある日いたるところの本屋にいっせいに、自分の顔が血の色もなまなましく―今度の本の函はたまたま暗い血の色をしています−積み重ねられる光景を想像すると、わたしは超現実的な恐怖に襲われます。そして同時にわたしを愉しませる妄想は、わたしの頭皮があまたの他人の顔に鬼面のごとく貼りついてけっして引き剥がすことができず、ひとを狂気におちいらせるだろう」
「さて、きょうの午後は百冊近い本にサインすることですごしました。」
半世紀を経て私の手元に偶然にも渡ったサイン入りの『聖少女』は、この百冊のうちの一冊なのでしょうか?そのせいで、私は憑かれたように来る日も来る日も倉橋由美子論を展開する狂気におちいっているのでしょうか。

「いま、血を流しているところなのよ」
倉橋由美子は女のなかを流れる血をとりだしてみせた作家なのだ。
ばら色は暗黒をくぐって血の色となり、意識の裏側を流れ続けるだろう。