『数学をきずいた人々』 村田 全

何だか、今日は頭のなかがごちゃごちゃとしていて・・
妙にあっちとこっちが、そっちとあっちが結びつこうとしてる。
なので、すっきりさせるためにこちらの本を

数学をきずいた人々

数学をきずいた人々

数学をきずいた人々 (さ・え・ら伝記ライブラリー 21)

数学をきずいた人々 (さ・え・ら伝記ライブラリー 21)

我が家にあるのはさ・え・ら伝記ライブラリー21のほう。表紙の、楔形文字(かしら?)が暗号のようでどきどきします。
子供のために買った本書ですが、私も大いに愉しんだものですから。
著者村田全氏は何かを伝えようとして、本書を書いています。
つまり、本当のことを知ることとはどういうことなのか、ということを、本当のことを知ろうとした人々の伝記を書くということで伝えようとしているのです。
まず、書かれたもの、常識とされていることも、疑う余地のあることだということを訴えます。本書は一応子供のために書かれています。非常にわかりやすい言葉で、確実に伝わるように慎重に、たたみかけるように論は進められます。ここまではいいか、つい話がそれた、などと言いながら、確実に運んでいく論法は愉しいものです。
数学が何故面白いのか。それは、正しいことを証明できる点にありますが、証明する方法を発見した偉人たち、ユークリッドデカルトニュートン関孝和をとりあげることで、考えることについて考えさせようとしているのです。
こんな本は読むのもいいですが、小学生のころに1度でもこのような講義を聴くことができたらどんなに楽しいでしょう。
読めば楽しいのでいちいち紹介する必要はありませんが、大変面白い記述がありました。
「我思う、故に我あり」の言葉で有名な『方法序説』の著者デカルトの女弟子の存在について。
フリードリッヒ王の王女エリザベト。彼女は学問、特に数学がよくでき、心、ものについて問答を繰り返したらしい。
デカルトは「おさないころ、やぶにらみの少女がすきだったが、それが尾をひいてか、後になってもそういう婦人に親しみをおぼえた。けれどもこのくせは反省しているうちになおった」と述べたと。
そして村田氏はそのエリザベト王女が「やぶにらみのような感じのひと(失礼!)」と指摘し、その肖像を掲げています。
見ればそのとおり「やぶにらみ」でそのうえヘアスタイルは直線的、ドレスの襟元のデザインまでが幾何学的で、彼女の存在そのものが幾何学的であるかのようにも見えてきます。
村田氏は「まさかエリザベトの目がやぶにらみで、ふたりの友情のもとも、そのやぶにらみのせいだった、というのではないでしょうか。」との言もじょうだんと片付けていらっしゃいますが、そこから先はわたしたちに考えなさいと示唆しておられるものと私は受け取りました。
その肖像はとてもよく描かれたものらしく、その視線を結べば図形、たとえば三角形が見えてきます。デカルトが常々彼女と議論を繰り返す時には必ず図形が見えたはずで、おさないころにすきだった少女の顔を思い出すときにも図形は見えたはずで、と考えることも可能です。デカルトの思索のもとに女性の視線(やぶにらみの)がある、と想像するのは愉しいものです。そうすると、先ほどのデカルトの告白はこのように解釈することもできないでしょうか?
「おさないころはどういうわけか、やぶにらみの少女が好きだった。繰り返しその視線について考えているうちに、数学的真実に至ることができたよ」と。
しかし心はどうなったのでしょう?デカルトとエリザベトの意見交換の手紙がまとめられた書物『情念論』でそれを確かめてみたいものです。