ゴダール 『軽蔑』 モラヴィア

カプリの、碧い、碧い海、高く、高く、天までとどく空を、まるで夢のように思い出す。そして木立ちの奥に垣間見たマラパルテ荘の赤い形も。

ゴダールの映画『軽蔑』を初めて観たのは20年近く遡る。ブリジット・バルドー、カプリの海とミシェル・ピコリ。魅力的すぎる映画はその後も幾度か観たが、モラヴィアの原作『軽蔑』は読むのを先へ、先へ、と延ばしてしまっていた。
読んだら最後、「軽蔑」という不吉な種は紛れ込み、芽を出し育ち始めるとでも思い込んでいたからか。
ゴダールモラヴィアに負けを認めざるをえなかったのではないだろうか。ゴダールという男は決してモラヴィアの小説の男のように弱みを曝け出すことはない。しない。できない。
主人公リカルドの苦悩、愛されない、愛されたい、そして「軽蔑する」との宣告を受けた男の苦悩は克明に記される。
殆ど私小説を読むかのごとく読み進むが、ラインゴルト氏のある台詞が語られ始めるや、やはりこれはフィクションなのだと知らされる。
ゴダールの映画『軽蔑』はラインゴルト氏の存在はぼかされている。そしてもうひとつの重要な場面も。それは懸命な配慮であり、モラヴィアを高く高く評価するが故であり、観たものすべてを原作に向かわせる為でもあろうか。
色んな意味で、ゴダールにとっては示唆を含む小説であったろう。
小説のなかで示される「オデュッセア」に対する3つの解釈、バティスタの、ラインゴルトの、リカルドの。
そしてゴダールに許される表現はどこまでか?ゴダールはかなり表現を控えたのだし、それは成功しているようだ。
私はおかげでモラヴィアの『軽蔑』を心底愉しむことができた。
この小説の欠陥を指摘することは無意味だろうか?エミリア人間性について。それを言い出すとやはりこの小説自体が機能しなくなるようだ。
なぜなら「悲劇」は欠陥の結果なのだから。私が図書館で借りたのは角川文庫のもの。オレンジと赤のイタリアモダンな装丁。