イタリアは私を好きにさせる

前のページで、エミリアを欠陥と呼んだ。それはどういうことか、と考える。
モラヴィアともあろう人が、あえてその人格のまま『軽蔑』に登場させたからにはそれなりの理由があるはずだ。その人格でなければこの小説は成立しない。
「私はあなたを好きです」
という文は、イタリア語では
「あなたは私を好きにさせる」
という文になるのだ。と今朝も夫が言っていた。私もちょうどそれを考えていたところだった。
それが事実なのだ。好きなことに理由はない。それが私を好きにさせるのだ。
イタリアは私を好きにさせる。たくさん、たくさん好きなものがある。ローマ、ヴェローナヴェニスシエナコモ湖、カプリ、シチリアダ・ヴィンチ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、ピサネロ。ルキノ・ヴィスコンティ。しかし、私はそれらを説明したくない。言葉にした途端、陳腐になる、とわかっていたら、言葉にすることなどとてもできない。
そういうことがエミリアなのだろうか。エミリアの言葉の欠如はそういうことだろうか?
リカルドは愛の苦悩とともに、芸術、美、詩情について苦悩する。映画という近代的な表現方法で詩、美を表現することの困難を苦悩する。
そしてゴダールは、映画で詩、美を表現することは放棄し、映画という表現方法について映画に考えさせる。
好きだと思わせるものは、完全なものではないかもしれない。欠陥をも含んだそのものが、好きだと思わせるのだろう。
やはり欠陥だと思わざるをえない点は、エミリアバティスタを羨望をこめた目で見つめるところだが、これは血迷ったリカルドの見間違いだと信じたい。