続Fortuna

前エントリーを補うものとしてひねもす様がフォルトゥーナについて素敵な解説をしてくださいました。
http://d.hatena.ne.jp/nisuseteuryalus2/20100613/1276431773
フォルトゥーナはローマ神話の運命の女神で・・ということは読んでいただければ解ることですが、私はそれを読んで、何故この絵に惹かれるのかが良く解った気がしたのです。
前エントリでは詳しく書かなかったことですが、顔とともに重要な部位、手袋に包まれた腕、拳銃に触れる手に強く惹かれていました。
その腕の重みは運命にも似て、
問いかけるような表情は観るものに問いかける・・あなたは何を信じるものかと。
「美を」と即答することもできるわけです。
拳銃が「死」を暗示しているのはあきらかですが、銃口はどちらを向いているでしょう・・線で結べば、観るものの脇をそれて後方へ、そこには美に目を向けぬものたちが蠢いているのかもしれません。
いづれにしてもその腕は重く、どう動くにせよ未来を問い続けるだけのようにも見えます。
ひねもす様によりますとフォルトゥナに関わる格言は夥しくあるとのこと

その人間が(quem:対格主語)破滅することを(perdere)彼女(幸運の女神)が望んだ(vult)ところの者を、幸運の女神は(Fortuna)愚か者へ(stultum)作り変える(facit)。

これを適用すれば、「美」に目を向けぬものの破滅をねがう絵画、と読み解けてしまいます。

運命は(fortuna)ガラス製(vitrea)である(est)。キラキラする(splendet)ような、その時に(tum、cum〜)砕かれる(frangitur)。

こちらも面白い言葉ですが、「美」とはまさにキラキラした一瞬なので、それをかきとめる行為そのものがfragile・・
絵画、彫刻、音楽、言葉にしても、危うい均衡に立ったものでなければその地点に届くことはないのではないでしょうか。
美を希うものがいるなら私はそれを希うでしょう。何故ならば、希うもののいない世界ではそれは滅びるほかはなく、そのような世界なら私はいらない、と思うから。

どうやら興奮気味。美とfortunaを強引に綴りあわせようとしたせいでしょうか・・あまり勝手に解釈すると、画伯に笑われることでしょう。