<レ島だけが例外だ> 

レ島への到着には、ちょっとした魔法のようなところがある。堂々巡りを続ける円軌道から離脱中の衛星に乗り込むのに似ているといえばいいだろうか。
この島というのが、まさに即自的な島なのだ。平坦なもの。船の甲板。中間的な場所。まったくの偶然からそこに着水した空飛ぶ絨毯。そう、レ島の平坦さには尊大なところがある。

そう、蒸散の問題なのだ。
けっきょく、地球があとに残すべきものは、塩なのだ。塩は、空と水、火と潮流、そして大気と鉱物界とが交わる交点に位置している。
白い塩の山が、うちふるえながら、時のたつのにつれてうず高く盛り上がっていくところを見てもらいたい。そのにおいを嗅いでみる。すみれに似た不思議な香りだ。できたばかりの塩のなめてみる。すると、からだ全体が自分の生命とは違うもうひとつの生命を思い出したような状態になり、それがはるかに力強く、またはるかに繊細な生命のように思えてくるので、一瞬、不死不滅の閃光がはしる。一般には、泡は事物のかすのようなものだと言われるけれども、ほんとうは泡のほうが事物にくらべてはるかに重要なのだ。なだめられ、抑制され、手なづけられることによって、物質のなかの物質にすがたを変える、つまり食べ物を輝かせるために、君たちが今まさに使おうとしているあの物質にすがたを変えるのは、この泡なのだから。自然が流した泡があるからこそ、きみたちは味覚をもつことができるのである。そしてレ島は粘膜の中心で、ゆっくりと仕事をつづける。

幻想と幻滅。起伏を欠いた陽がのぼり、また沈んでいく様子が、まるで一本の直線の両端で起ることのように見えるし、島をつつむ光は、微気候性だから、いつも銀色にそまっている。

どこにでもありそうでいながらどこにもない場所。それはフィクションを乗せた小舟に似ている。

フィリップ・ソレルス『例外の理論』は大きな翼でばさばさと羽ばたきながら人類の歴史の誤読を、読み間違いを哄笑するような書物ではあるが、その中に「レ島」のような詩(としかいいようがない)をそっと、やさしくすべりこませる。

例外の理論

例外の理論