メルロ=ポンティの眼差し 「眼と精神」

憑かれたように進む言説。

眼と精神

眼と精神

一方の眼と他方の眼・一方の手と他方の手のあいだにある種の交差が起こり、<感じ-感じられる>という火花が飛び散って、そこに火がともり、そして--どんな偶発時によっても生じえなかったこの内的関係を、身体のある突発事が解体してしまうまで--その火が燃え続ける。

ルネサンスのさまざまな「解決」の後四世紀、デカルト以後三世紀になるが、奥行はいつも新しい。そしてそれは、ひとびとが「一生に一度」ではなく一生涯求め続けることを要求する。

それぞれのものが交互に隠し合うからこそ私がそれらをそのそれぞれの位置に見るのだということ、また、それぞれの物がそれぞれの場所にあるからこそ私の眼前でそれらが競い合うのだということ、それこそが謎なのだ。言いかえれば、物の内包において知られる外在性、その自律性において知られる相互依存性が謎なのである。

視覚は思考の一様態とか自己への現前ではない。それは、私が私自身から不在となり、存在の裂解--私が私自身に閉じこもるのは、その極限においてしかないのだ--に内側から立ち合うために贈られた手段なのである。

眼は「心の窓」と考えられるべきである。
眼は心に対して、心ではないもの、すなわち物の至福の領土や物の神、つまり太陽を開くという奇蹟を行うのである。存在する世界は目に見えるものではなく、ただ一つの光は精神的なものであり、一切の視覚は神のうちで生起するのだと信じることもできよう。

「線路こそ平行線と和解した連続線のイメージである。つまり、そこでは二種類のレール[平行線としてのレールと連続線としてのレール]が等価なのである(ロベール・ドゥローネー)」
収斂しながら、収斂しないレール、彼方においても等間隔であり続けようとするために収斂するレール、私から独立であろうとするために私の遠近法に従い、私なしにあろうとするために、つまり世界であろうとするために私に対してある世界。

きのう、運転席の真後ろに陣取り線路を見ていました。収斂しながら収斂しないレールの上を進み、遠近法の上を進み、奥行はさらに奥行を生んで進みました。