下村観山という人

年末にドガ展を観るために横浜美術館に足を運んだのでしたが、時間がないままに感想をアップしてしまい中途半端なままですが。
横浜美術館は近代日本画のコレクションが結構並んでいるが、そのなかで下村観山の絵画に心惹かれる。
非常に均整のとれた、破綻のない美しくもきれいな絵画なのですが、題材の扱いに特徴を感じて何か引っかかるものがある。
《小倉山》という大きな作品がある。手元の「講談社版日本近代絵画全集 下村観山 川合玉堂」には

これは歌人藤原定家が洛外の小倉山別荘の樹林にあって、吟詠に耽っているところである。流石に都の山荘らしくその紅葉にも、あでやかさがありまたしっとりしたものがあって、

と解説があり、美術館の解説も同様のものでした。しかしここで思い浮かぶのは有名な
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」
その定家が美しい紅葉の下で泰然と吟詠に耽る姿。流石に花は描かれていないものの、紅葉は在る。それでいて「紅葉はない」と泰然と言い張る定家の姿を描く下村観山という人に興味をおぼえる。これはもしかしたら下村観山の自画像かもしれない、などと穿ってみる。
画集を開くと「下村観山 忍従の果てに」とある。近代日本画壇を牽引した岡倉天心への従、新しい時代を拓こうと躍起になる横山大観との関係のなかで淡々と描き続けること、描くことによって繋ぐことを願うように。
下村家は代々幸流の小鼓を世襲する家に生まれるが、時代は廃藩により紀州家の扶地から離れる。世襲の制は崩れ、父や兄弟も彫刻に転じたという。
描かれたものはやはり能に題材を得たもの、関連したものが多い。能の存続が危ぶまれた時代にあって、幼少の頃から慣れ親しんだ世界、かつて確かに「あった」幽玄がひらく時間を、うしなわれようとする時間のなかで描こうとする。「ある」のに「ない」ということは、「ない」ところにそれは「あり」、「なく」ても「ある」とただ描き続けた人かもしれないと。小鼓の音...
ものごころ付く前から、ずっと鳴り響いていた小鼓の音。単調にも似た、そして序破急へと、乾いた皮を打つ音は下村観山の耳に常に鳴り響いていたのではないだろうか。ひとたび舞台がはじまると、そろりと歩みを進める白足袋の、物語は謡いはじめる。