『モレルの発明』 アドルフォ・ビオイ=カサーレス

ボルヘスの親密な友人ビオイ=カサーレスによる、ロブ=グリエ去年マリエンバートで』の霊感源ともなった作品、清水徹氏による翻訳。
不思議な飴玉のような、といったら可笑しいだろうか。透明な丸い飴玉を舐め進むうちに瞼に映し出される幻、からくり、装置、夢、
反復の、反復による、反復のための、遂には反復への。

安定した「見る」という行為を支え、成立させている《距離》というものを、鏡が破壊してしまう。鏡の向こうにもうひとりの自分がいる。私が右腕をあげると同時にもうひとりのわたしは左腕をあげる。同一と他とが等しいという背理。
その背理を成立させるのが《鏡であり、その背理とともに私ともうひとりの私とをへだてる距離が、曖昧なもの、ひどく不安定な、いわば狂った距離、距離なき距離と化する。
(訳者解説より)

その夜、ビオイ=カサーレスが私と夕食をともにし、私たちは、ある種の一人称小説の構想ーー語り手が事実を抜かしたり歪めたりして〔叙述の上で〕いろいろな矛盾を犯すこととなり、その矛盾のために、小説の背後に隠された真実はごく少数の読者にしか推測することができない。
そんな一人称小説の構想について、夜遅くまで長々と論じあった。
廊下のはるか奥から、鏡が私たちを凝視していた。
ボルヘス/訳者解説より)

内容には一切触れないほうがいいが、ほんの少し抜き取ってみるなら

頭脳が明晰さを取り戻し、以上のような認識ができるまでにはかなりの時間がかかった。それまでのわたしの状態は
1。絶望。
2。役者と観客の二役への自己分裂。海底に沈んだまま空気の足りなくなった潜水艦内にいたり、舞台の上にいたり、といった感じだった。そして、自分の崇高な態度に感じいったり、あるいは役者になって混乱に陥ったりしながら、ずいぶん時間を浪費してしまい、脱出したときはもう夜は更け、あたりは真暗で食べられる根を捜すことはできなかった。

清水氏の翻訳を読むとき、主人公、作者、翻訳者の声が多層に重なって聞こえてくる、箇所があるのは面白い。

モレルの発明 (叢書 アンデスの風)

モレルの発明 (叢書 アンデスの風)

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