はなももみぢもねむの木も 

二月一日国立能楽堂
演目は狂言長光』と能『弱法師』。
開演前に展示室の「観世文庫展」に足を運ぶ、正面奥のガラスの中に納まる巻物は世阿弥による自筆本「難波梅」。多くをカナで綴る筆文字は淡々と淀みなく運ぶ。「月」の文字は空に浮かぶ月におなじ、「ハナ」の文字も見える。一四一四年閏七月にこの紙の前に座り筆を手にした世阿弥が文字を並べた感慨は深い。

狂言が終わったら二十分の休憩、もう一度世阿弥自筆を眼にしてから長方形に切り取られた中庭に出る。春夏秋にはかなく優しい緑の葉を空に揺らしていたネムノキは眠りの芸能、能の眠りを司るものと秘かに信じているが、冬空の下の中庭は花も紅葉も合歓木も冬枯れて、緑は常緑の松と苔の色ばかり。
開演のベルが再び鳴って脇正面二列目の席。鏡板の常緑の松の緑はいつも眼に鮮やかに眩しい。橋掛かりを弱ろりと進む盲目弱法師の歩みの遅さ。

出で入りの、月を見ざれば明暮の、夜の境を得ぞ知らぬ。
いはんや心あり顔なる、人間有為の身となりて、憂き年月の流れては、吉野の川のよしや世とも思ひも果てぬ心かな。生をも更へぬこの世より、中有の闇に迷ふなり。本よりも心の闇はありぬべし。
伝へ聞く、かの一行の果羅の旅、かの一行の果羅の旅、闇穴道の巷にも、九曜の曼荼羅の公明赫やくとして行末を照らし給ひけるとかや。今も末世といひながら、
うたてやな難波津の春ならば、ただ木の花とこそ仰せあるべきに、今は春べも半ばぞかし、梅花を折って頭に挿しはさまざれども、二月(じげつ)の雪は衣に落つ、あら面白の梅の匂ひやな。
花をさへ、春なれや、遊び戯れ舞ひ謡ふ、難波の海ぞ頼もしき。げにや盲亀の我等まで、見る心ちする梅が枝の、花の春の長閑けさは、
月落ちかかる、淡路島山と眺めしは月影の、眺めしは月影の、今は入日や落ちかかるらん、曇りも波の、淡路絵島、須磨明石、紀の海までも、見えたり見えたり、満目青山は心にあり おお見るぞとよ見るぞとよ
誰なれば、我が古を問ひ給ふ、高安の里の俊徳丸が果てなり
さては嬉しやこれこそは、父高安の通敏よ
父は追ひつき手を取りて、鐘の音も夜紛れに明けぬ前にと誘ひ、高安の里に帰りけり、高安の里に帰りけり

讒言によって子を遠ざけた父は後悔に暮れ我が子を探す。讒言により孤児となり盲目となり弱法師と呼ばれる子「本よりも心の闇はありぬべし」と憂き年月を、中有の闇を迷う。盲目の瞼に浮かぶ懐かしい故郷の心の景色はまぼろしだろうか、うつらうつらと眠りに誘われる。
ふいに目覚めると父と子はめでたく再会し、急ぐように<鐘の音も夜紛れに明けぬ前にと>去り行く幕の向う。