遊読

モーリス・ブランショ『虚構の言語』から。

言語は一つの記号の言語であって、その特性は、言語が狙っているものによって満たされることではなくて、狙っているものを欠くことであり、言語がわれわれに到達させてやりたいと思う物をわれわれに与えないで、自分がその物の代りをしてわれわれにその物を不必要にさせることである。

語は、その向こう側にも、事物のこちら側にも見られないし何も示さないから、純粋な意識はそこを通り過ぎる、しかも非常に控え目に通りすぎるので、意識は時にはなくなってしまうことがある。そのときすべては無である。こうした極端な貧困さほど豊穣なものはない。

では象徴は何処にあるのか。それが現れるところにあるのか、隠れているところにあるのか。事物がその自然な闇を伴って存在するところか、それとも事物の背後にその空虚が、物語の背後にその不在が、その完成を妨げる不可能生が浮びあがるところか。

本の冒頭に、誰も語らない問題を語るのが恐らく普通のことだろう。《それが千もある》しかしそのうち九百九十九は分らないと諦めているときに、分ったところで《きざで無益な》たった一つの問題を最初に置くなんて奇妙なことだ。

こうした読者は、われわれが想像するところでは、抽象的分析では分けられるが現実には判然としない諸要素に分解される言語を見たら、恐らく嘆くことだろう。詩に関して、意味と音との関係がくつがえされうる法則を求めるのだって?

だがそれは何ら神秘的なものを求めることじゃない。なぜならこれらの要素が、分析的記述では考えられないような関係を保持しているのは、いつだって分かりきっていることじゃないか。それから、《語や思考が詩においては無関心な場合がある》という文例に注意しようじゃないか。

ブランショの文章は説明しない。語が自律的に語の周囲を歩き回り、言語の中に入ったり外にすり抜けたり、そういう語のふるまいそのものが(愉しい、好ましい、何といったら適切だろう。好きだ。と思う)。