愛読

今年もまた桜が咲いた。
午前中は息子の入学式に列席した土曜日、帰りに夫と待ち合わせてお花見の予定。朝は晴れていたのに俄かにかき曇る空、花の所為それとも...
待ち合わせ場所を俄かに九段下に変更したものの人波から逸れて清水門に穴場をみつける。暫し花見気分を楽しんで古書街へ向い、奥野かるた店で光琳かるたを見せていただく。漆塗りの函、布に包まれた等しく湾曲する美しき絵札。縁から裏は金箔を施した十二万以上のものと金箔ではないもの四万円弱。絵の部分は全く同じらしい。意外につるりとして光沢のある表面。「ありがとうございました。」店を出る。レコード店を覗いた後、書店の棚に「物理」の文字が見える、理系専門店らしい。
厳めしい題名が並ぶ中、ディラックの原著と翻訳の共に古びた背表紙は並んで棚におさまっていた。いくつかぱらぱらと捲って棚に戻す。帰るとアマゾンで注文した古書の『朝永振一郎著作集Ⅰ 鳥獣戯画』がポストに届いていた。函に納まる赤い布の質感も美しい。

この日本語訳の作業は昭和十年の夏にはじまった。御殿場でやったような合宿生活を今度は北軽井沢でやることになった。総監督の仁科先生は御家族と共にやや大きな貸別荘に、そして理論グループの玉木、小林、朝永ら若い方の三人は小さなバンガロウに住み、共同してこの作業をはじめることになった。
ラフカディオ・ハーンであったか、日本人はupside down, inside out に物を考えると言ったとか…その上、人には各自文体について好ききらいがあり、一人がよいと思う文体が他の者には受け入れられず、なかなか意見の一致は得られない。
下訳を若い三人でやって、それに仁科御大が手を入れることになっていたが、この下訳の段階で毎日口げんかが絶えない。それやこれやで疲労がつのると、さ細な意見のちがいも争いのたねになる。
今でも思い出すのは、ある晴れた日に、売店でブドウ酒を買い込みさかなを用意して、山の中腹の見はらし台と言われるところにのぼり、あたりの鳥声をききながらびんをあけて三人でブドウ酒をのみかわし、夕がた西の方アサマの裾野と四阿山の裾野とが接するはるかかなた、鳥居峠のあたりに夕日があかあかと沈むのを飽かずながめていたことである。
このようにして合宿生活も無事に終り、今でも学生必読の書となっている「ディラック量子力学」という翻訳が世に出ることになったのはその翌年、すなわち昭和十一年のことであった。

ディラックの『量子力学』の翻訳の思い出が綴られていた。あの翻訳の、稼動する機械のような文体が諍いと非日常とも見える景色の間に生まれたという。

毎度かがみのことで恐縮だが、このごろ少し気になることがある。
そんなことはまあいいとして、…
かがみに迷わされる心配はないだろうか。出口に向って逃げたと思ったらかがみにぶつかってしまうということはないだろうか。入り口という字は映像と本物と少しはちがっているが、判断はむつかしい。
<鏡のなかの世界「かがみ再論」より>

朝永博士の、一見したところ取り立てて変わったところのない文章…何のことはない、デパートのあちらこちらに仕掛けられた鏡のせいで後ろから来る人に鏡に向かって手を振ったりすることがある、という文章なのだが...そればかりではないような気分にさせるふしがある。
もうひとつ。

写真屋さんも、あんなものものしい機械でない方が便利ではないのか。
写真屋さんは、撮影という行為によって一種のセレモニーを行っているのだ--
まず参加者は司祭に導かれて着席する。司祭はおもむろに参加者に注意を与える。そのうしろのかた、もう少しあごを引いて、とか、まん中のかた、ちょっとからだをななめに、とかいったぐあいに指示を与える。そして、写真機のところに立ってじっと見まわし、ネクタイのまがった人がいると、つかつかとやってきてそれをなおしたりする。こうして準備がととのうと、おもむろにフロシキをかぶり、蛇腹をのばしたりちぢめたり、シャッターのぐあいをためしたり、いよいよ儀式的行動に入る。この時分から満場は水をうったようになり、人々の注意は写真機に集中してくる。あたりはしーんとして、しんらばんしょう、その動きを止めたように思われ、今の現在がなんとなく記念すべき瞬間なのだといった緊張感が支配しはじめる。そして、ファウスト博士ではないが、瞬間にむかって、とまれ、お前はいかにも美しい、とよびかけたいような気持になったとたん、ゴム玉がにぎられ、シャッターが音をたてて切られる。
<鏡のなかの世界「写真屋さんについて」より>

不思議なふし穴から世界を覗くようなおかしみが堪らない。