白洲正子「私の百人一首」

白洲正子の本で、最初に読んだのは「私の百人一首」だった。

私の百人一首 (新潮文庫)

私の百人一首 (新潮文庫)

お正月ともなれば、桐箱にうやうやしく収まった百人一首の登場である。色褪せた紫の紐をほどいて、家族で遊ぶ。私は札を覚えるのに熱心な子供ではなかったので、殆ど覚えている姉に負けてしまうのが常だった。でも、お気に入りの札、母がこれはあなたの札、と教えてくれた札だけは絶対に譲らない。
白洲正子にとっては、印刷された百人一首、などというものはつまらないものだという。それにまず私は驚いた。私たち家族が大切にしていた百人一首をけなされたような気がしたから。
しかし、少々出鼻をくじかれたこの本を読み終える時、涙が溢れそうなほどの感動を私は覚えたものである。和歌が生きていた時代があったこと、そして和歌の時代の終焉を生きた藤原定家がどんな思いでこれら百首をえらんだかを思うと、私は自分の生まれた東の果ての島国のことを、かつてないほど愛おしく感じた。
1番から2首ずつ順に読み進める。そうすると、ほぼ時代順にならんでいること、2首ずつ対になっていることが面白いほどよくわかる。かるたで遊ぶときは、順番もなにも上の句、下の句も全てばらばらに存在していたわけなので、こうも整然と全体像がみえてくるというのは感動的である。あとがきで、「毎日ちがう人物に会えることがたのしみで、王朝の人々とともに遊んだり悲しんだり恨んだりしてすごした」と語る。私はやっと、この人たちが生身の人間として生きていた人々であることを知った。
まず、天智天皇持統天皇中臣鎌足に藤原の姓を与えた天皇と、藤原時代の基盤を作った天皇から始まる。次は柿本人丸と山部赤人万葉歌人の2人組、という感じで、歌の共通点で対になっていることもあれば、人物の対比で対になっていることもある。変化をつけながらも流れが感じられる順番になっている。
最後の2首は、隠岐に流された後鳥羽院と、佐渡へ流された順徳院でしめくくられる。
百首目は順徳院の
「百敷やふるき軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」
百首目で百敷や。幾重にも重ねられた和歌の時代、その和歌の時代は終わろうとも、いにしえから続く、あまりあるほどの和歌の数々があるではないか、と、定家の諦観ともつかぬ呟きを聞くようで。定家の、和歌への、果てることのない愛、執着を知った私の胸は熱くなった。