定家と式子内親王

白洲正子の「私の百人一首」を読んで、たくさんの人が立体となって動き出したようでしたが、そのなかで、強烈に心ひかれたひとは式子内親王でした。
「玉の緒よ 絶えなば絶えね長らへば 忍ぶることのよはりもぞする」
歌だけを知っていた時は、随分おおげさなうたいぶりで、と思っていましたが、どうも、ただごとではない、という気がしてきます。賀茂の社に斎院として10年間奉仕したことが、この方のうたいぶりにあらわれているようです。
「見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中」
浮雲を風にまかする大空の行方も知らぬ果てぞ悲しき」
「はかなしや枕さだめぬうたたねにほのかにかよふ夢の通ひ路」
夢、まぼろしの中に生きようとする内親王の歌は、他の歌人のうたう男女の愛の歌とは著しく趣を異にするようです。定家の執心が死後も蔓となって式子内親王の魂を苦しめるという能「定家」を生むほどの、しかしその真実はどういうことだったのか。定家の「明月記」を読みたいと思ったのも、定家の人となりを知りたかったからですが、当時海外にいた私にとってこれは簡単に読めるようなものではなく、まずは堀田善衛氏の「定家明月記私抄」を取り寄せることがせいぜいでした。

定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)

定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)

「明月記」を読みたかった私にとっては堀江氏の主観に付き合わされるようでストレスを感じたのを覚えています。
最近になって松岡正剛氏の千夜千冊での書評を読み、
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0017.html
この本からそれだけのものを引き出すことができたかと、松岡氏の読みの深さにやはり驚かざるをえません。松岡氏曰く「先を読みすすむのが惜しく、できるかぎり淡々とゆっくりと味わいをたのしみたい」と。あら、そうかしら?と(松岡氏の書評を)読み進む。
藤原定家の歌壇デビューは17歳だった。治承2年(1178)の賀茂別雷社の歌合」と。式子内親王が賀茂の斎院として奉仕されていたのは平治元年(1159)から嘉応元年(1169)の十年間なので、このときは式子内親王は斎院ではない。他の歌人60名に式子内親王が加わっていたかどうか、私にはわかりません。この時の歌は
「神山の春の霞やひとしらにあはれをかくるしるしなるらむ」
松岡氏は「すでにうまい。すでにうまいけれども、特徴がない」と評しておられるが、若き定家は花壇デビューの緊張とともに、賀茂の神山の神々しさを心に留めたかもしれません。「あはれをかくるしるし」という表現に、何か予感のようなものを感じます。
とにかく、松岡氏の読みで、決定的、と思われたのはたとえば
「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの杜の白露」
「駒とめて袖うちはらふ影もなしさののわたりの雪のゆふぐれ」
などの歌に対するこのような文章、
「そこにあったはずのものが少なくなっていく。消えてゆく。そして何かの景色がぽつんと残っている。その景色を残して、自分はそこを退出してきた。そこには自分もいない。そういう歌だ。」
まるで真犯人はこれです、と指し示されたような気がしたものです。
「ウツとウツツを往復する定家が見えはじめている。けれども、ウツとウツツを往復するには、ウツの言葉とウツツの言葉をつかいわけるのではなく、あえてこれらを交えて、さらにこれらを相対することも必要だった。」
そうよ、そうよ!と同意する私がいます。「消えてゆく」あるいは「ウツとウツツ」、そんな言葉だけで私には十分だったかもしれません。式子内親王と定家に共通する感覚は、そういうところにあったと思います。この2人は、歌だけで、心を通わせることしかできなかった、いや、通わせられると信じたのは定家ひとりかもしれません。内親王は、ただ1人歌の世界に閉じこもるばかりで容易に人を寄せ付けようとしない、そんな内親王の歌を通じて、定家は自分は、自分だけはそれを理解するものだ、と信じたのではないでしょうか。
内親王の孤独、それはだれにも癒されることはなかったに違いない、と私は思うものです。この人は、本当に、斎院として、神の妻たる自分を疑うことのなかった昔の自分を捨てることはできなかったのではないでしょうか。
「玉の緒よ」の歌、絶唱とも称されるこの歌にほとばしる感情、その忍ぶ相手はこの世の人ではない(人間ではない)、としたら、この人の苦しみは誰にも打ち明けることもなく、ただただあこがれに身を委ねていた昔の自分を懐かしむ、という方法しかない、と思われるからです。
至上の愛を信じる内親王、その心を知るや、稀代のロマンチスト定家は、雷にでも打たれた衝撃を味わったかもしれません。それならば、その心を必ず自分が守ってみせる、そんな騎士道精神、とでもいったらいいでしょうか。そんな役割を一人演じてみせると誓ったのがこの人ではないか、周囲からは異様に映った内親王邸参りは、そういうことではなかったかと、私は思うのです。
神社、そこは神が「坐(います)」ところ。神を祀るのが職掌という中臣氏を祖とする藤原定家は、式子内親王を通して神をみたのではないでしょうか。