嵐山 天龍寺

仁和寺竜安寺にも行きたかったけれど、とりあえず荷物を次のお宿に運んでから考えることに。昼食をとりながらお宿のパンフレットをあけてみると荷物をお宿からお宿へ運ぶサービスがあるのを発見。ええ?それなら安心して動き回れたのに..と恨めしい気分。バスで移動、疲れて眠くなる。バスを降りると暑いこと暑いこと、道もよくわからないのでタクシーを拾ってお宿へ。遠くはないけれど簡単でもないからタクシーを使ったのは正解としましょう。
夕食まで時間があるし天龍寺へ。
夢窓国師による庭園、曹源池と借景の嵐山を前に座る。もくもくと入道雲が高くふくらんでいく。なるほど、西の空に毎日湧き上がっていた入道雲はこの嵐山を登る天龍の姿だった。夕陽は入道雲のふちを紅く彩っていた、それを間近で眺める。そうするうちに鳴りはじめた。
庭園は見事だが、自然の姿があまりにもはっきりしているので、それに名を与え、人間界と自然界を繋ぐための庭園と見る。祥雲閣、友雲庵、龍門亭と、建物の名も雲を褒め、友と呼び、時には荒ぶる神との和合をはかる装置。ずっと鳴いているが、降るのやら降らないのやら...
あまりくつろいだので、思わず遠隔操作をしてしまったのでした。

寤寐恆一、憶忘如一(ごみごういつ、おくもうにょいつ)
(ねてもさめても同じこと、憶えているのも忘れるのもひとつのこと)の境地に入ろうと努力した。翌年、座禅中に眠りこけ、夕陽が窓からさし入ったのでやっと眼をさまし、恥ずかしいと思った。

お宿の書棚の本から夢窓国師の言葉を引いてみる。続きはたしか...恥ずかしいと思うことこそ恥ずかしい、仏の境地に至るまで眠り続けるとしても同じことだ、ということだったか...(思い出そうとすると眠くなるようです。夢の窓)