詩をねがう詩人 西脇順三郎

私にとって、言葉に対する執着というものがだいぶ遅くなってからあらわれたので、詩に目を向けるのもだいぶ遅くなってしまった。
西脇氏は、「詩」は「美」であるという。そうあることを願うという。

詩という言葉で自分は藝術の美というものを表現したい。その意味で詩のない詩は詩ではなく、詩のない小説は文学でない。詩のない絵画は藝術でない。文学上の美は詩である。

詩の直接の目的は快感であるということは、そういう淋しい気持にひたることが快感であると思う。ある人は淋しがりたいのだ。淋しがりたいのは人間の一つの欲望であると思う。

淋しさは美の極致である。

印象的に詩の情念を説明すれば、詩は存在自身の淋しさである。自然即ち人生の淋しさである。その淋しさは恋愛の淋しさである。
詩の術は恋愛をかくすことである。

詩の世界はかすかな意識の世界であると思う。
詩の世界は現実と夢との調和である。
おかしみと哀愁とがかすかに混入して一つの稀な存在をつくらなければならない。

もうわれわれは頭がこんこんとして影あるのみである。詩は詩論であって詩論は詩の本体であるかどうかもわからなくなった。哀愁は詩の本質である。恋愛は哀愁である。詩という影は二つの面をもって、その一つは哀愁で、もう一つの面は恋心である。

われわれの会話はいつも同じところをめぐって、つかれた。

詩のために、詩をめぐり、つかれて、かすかにわらっているのだ。
そのねがう心は淋しく、あまやかなのだから

どういうわけか詩を転載せず...