「変質した優雅」 三島由紀夫

三島由紀夫による観世銕之丞演ずる「大原御幸」に寄せて。なかなかに凄まじい。

平家滅亡の直後、自らのみ波の間から救はれて、思ひがけず命を永らへ、大原の寂光院に世を捨ててをられる女院を、父法王が訪れ給ふ話である。そして法王は、娘に向つてかう言ふのだ。
「さいつころ或る人の申せしは、女院は六道の有様正に御覧じけるとかや。仏菩薩の位ならでは見給ふ事なきに不審にこそ候へ」
つまり法王は、
「あなたは地獄と天国をすべて見てしまつたさうだが....」
と言ってゐるわけだが、ここではなかんづく地獄に重点があって、
「あなたは地獄をすでに見てしまつたさうだが.....」
と言ったようなものである。
ところで、じつとうつむいて父法王のこの言葉を受けてゐる女院は、風にもたへぬあえかな女性、高貴な美女である。彼女は父法王から、今ズバリと、
「お前は地獄を見た女だそうだが....」
と言はれたのだ。この瞬間の舞台の効果は、いたく残酷なものであった。彼女のほのかな姿は、いかにも地獄のイメージにふさわしくない。どんな汚れにもふさわしくない。

能は、いつも劇の終わつたところからはじまる、と私はかねて考えてゐた。「大原御幸」では、この世の最高の劇はすでに終り、もつともふさはしからぬその目撃者が残つてゐて、その口から過去の劇が語られるのである。
能がはじまるとき、そこに存在するのは、地獄を見たことによって変質した優雅である。芸術といふものは特にこのやうなものに興味をもつ。

「仏菩薩の位ならでは見給ふ事なきに.....」
法王はかう言つてゐるのである。
「このやうな文化と死との激突の場面は、超越的な見地からは、冷静に見ることもできようが、身自らその戦ひの渦中にあって、相対的な存在として、どうしてそれを『見る』ことができたのか?あなたはたしかにただ強ひられて、眼に映るままに見たのか?ひよつとするとあなたは、後代の文化のため、記憶による叙述のため、稀有の表現のために、『見る意思』を以って見たのではないのか?」
そのとき女院は、超越者として、仏菩薩として、宗教の力を借りて、表現の能力を恢復する。宗教は、文化にも、死にも、同等の注視をそそぎ、ぎりぎりのところで、優雅と人間の実相を並存させる力として現はれる。
これが芸術における宗教的救済の出現する地点である。それは、「見る意思」を支える最後の力である。

三島由紀夫がこう言い切った時、加えうる言葉はなにひとつ見当たらない。