「お香とお能」 白洲正子

香木や火はありのままの自然のものですから目をあざむきません。そのままで信用できるのです。しかしお能の舞台における人々とても実際においてすこしも香木とや火と異なるものではありません。外観にあざむかれてもその事実が信用できないのは観客が悪いのです。お能の演者はみなありのままの自然の姿で、すなわち裸一貫で演じているのです。

いつも「香は聞く」ものであります。それには「問うて答えをまつ」意味があるそうです。お能もその意味でまさしく「問うて聞く」ものです。

香木が薫くとなくなるように、火も炭が灰となると同時に消えるように、ひとつのお能が一、二時間で永久に終わってしまうように、人間も無になりえる性質をもっております。
お能のもつそのつよさはまことに「巌に花の咲く」つよさであります。

「香を聞く」ように彼らは舞台の上からしじゅう私たちに話しかけます。一時間ないし二時間のはかない命に生きる人々が心の底から言うことには、
お能は終わってもお能は終わらない」

「ひとつのお能には全能力を用いることを必要とする。ゆえに観客も全能力を働かさなくてはならない。お能の全能力とは、お能の力である」

お能は空中に浮いているユメをえがきはしない。
ユメは、技術を必要としない幽玄、
お能は、技術をもととする幽玄」

そしてはてしもないもののはじめと終りを考えるとき、千年も二時間も大差はないことを知ります。

白洲正子お能について語るとき、手探りをしたりその形を捉えようとして空を掴むようなとき、氏のお能に寄せるこころの深さははかりしれない。その貌は泣きながら笑っているようで。