京都旅--雨雨雨の枯山水と水の波紋

二日目は車で移動。相國寺からスタート。陽山紅、白君子蓮、仏座蓮...池に咲く蓮の花の大きいこと、近づいて見ることはかなわないが人の顔ほどもある見事な白の花びら、紅色の花びら。はやくも日光が眩しい、蜩の声もやさしく夏を告げている。金閣寺銀閣寺を擁する臨済宗相國寺派大本山夢窓疎石の開山。

夢窓疎石墨蹟 「別無工夫」

修行のための修行はなんの益にもならない。本来日常底の中にこそ仏法はある。各自が与えられた場所で真剣に物事に取り組む。あれこれと計らず、慮らず自らを尽くしきることこそ修行に他ならない。『夢中問答』

「夢中問答」にある「別無工夫」の意味するところは尤もながら、語の素っ気なさが却って面白い。
夢窓疎石墨蹟「迷生寂乱」、足利義満一行書「放下便是」足利義満書状、足利義持書状、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状鹿苑寺宛、徳川家康黒印状慈照寺宛、千利休真蹟一行書「孤舟載月」
伊藤若冲「釈迦三尊図」の朱、緑、青、とりわけ白の着色の鮮やかさ。獅子に乗る文殊菩薩、白象に座す普賢菩薩の、玉座に座す釈迦如来の指は植物の、蓮の花弁のようだ。
そして伊藤若冲の手になる鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画の見事。墨だけで描かれた、余白を残した表現、葡萄の蔓の伸びゆく形、自然のあるがままの生きとし生ける形、素粒子という言葉が心に浮かぶ。芭蕉の葉、夏を遮る葉蔭の涼しさ。繰り返す季節の営みは世々を超えてゆく。
相國寺派の形に置き換える精神、決して広くはない館内に充溢する気配に圧倒される。廊下を行くと硝子の外の庭石を大粒の雨が洗っている。あんなに晴れていたのに...いつか天龍寺で見た入道雲、嵐山を昇る雲を思いだして、自在に雨を降らす神さまの仕業。小止みに駐車場まで走る。
紫野は大徳寺へ。大仙院、龍源院、瑞峯院、高桐院、波紋を模した枯山水の庭から庭へ。
お昼の後、やっぱり雨…迷路のような道を入り夢窓疎石の名園、等持院の心字池に落ちては消える波紋にときをわすれる。

南禅寺へ。

三門に上ると時は夕刻、山の稜線からたち昇る霧と蝉の声。大方丈は広びろと、世俗的ともいえる雰囲気の庭はどこか人懐こい。山から流れる豊富な水の音を後ろに、もう雨は止んだ。

夢窓国師 夢中問答 (岩波文庫)

夢窓国師 夢中問答 (岩波文庫)

京都の閉じた庭園に入ると感じる安堵。そこは楽園なのだ。楽園の主は雨、風、花で歓待してくれる。主が居たいように維持するのはこの世の人であり、無我に園を維持する、或いは同化しているであろうその遺伝子に圧倒される。私は旅人として通り抜けるだけ。