根津美術館 《平家物語画帖》

お次は根津美術館に移動して《平家物語画帖》を鑑賞。
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/index.html
扇形にひとつの場面を閉じ込めて、右側にうつくしい筆文字による詞書。金地の上に交互に配された様は江戸時代の作ということだが金色に海の藍色、常緑の松、借景の山並みも装束も全てが目に眩しいほどに鮮やか。扇は思いのほか小振りだが、<諸行無常のミニアチュール>と展覧会タイトルにも謳うように小ささ、細部の細やかさを強調する狙いがあるようだ。扇面は小さいながらも末広の形状の為か大きさ以上に画面構成の妙を発揮するものだろうか、近景と遠景を描き分け、小さな画面にそれぞれの場面の、物語の躍動が閉じ込められ見事。わたしはどういうわけか舟や船のある絵が好きだが平家物語は舟、船の場面が多く...嬉しい。

山ばと色の御衣にびんづらゆはせ給ひて 御なみだにおぼれ ちいさううつくしき御手をあはせ 二ゐ殿 やがていだきまいらせて
「なみのそこにも都のさぶらふぞ」
となぐさめ参らせて ちいろのうらにぞしづみ給ふ
              <せんていの御入水の事>

二階の展示室の古代中国殷王朝の饕餮文の青銅器のコレクションが好きだ。幾千年を経た青銅に施された文様に浮く緑青の色の眼福。
贅を凝らした殷王の酒器、ぐらぐらと煮立つ酒に文字が沸き溢れ出したのだろうか…文字が生まれた数千年まえを、饕餮文を施された青銅器は憶えているだろうか、きっと。何故か知らず哀しくなる。
図録と絵葉書を一枚買って、庭に出る。未だ紅葉には早い秋の風が縮みはじめた樹々の葉を鳴らしている。鳴き交わす鳥の声が聞える、都会を忘れる。

能 『淡路』

二箇月ぶりの能楽堂。四角く空を空けた中庭に咲く紫の萩、すすきは金色の穂を揺らし、合歓の木も天高く。
狂言は『昆布柿』。
幕間は展示室の《加賀の能楽名品展》を鑑賞。装束の色合いが目に優しい。色数を抑えてある所為か鬱金の地色もあたたかく松の緑も柔らかい。
能『淡路』は伊奘諾伊奘冉の国生みの、国を寿ぎ豊穣を言祝ぐ。

山河草木国土は皆 神の恵みに作り田の
雨土塊をうるほして 千里万里のほかまでも
皆楽しめる時とかや 花に心のあこがるる
水に心の種まきて 雪をもかへす景色かな
雪をもかへす景色かな
然れば開けしあめつちの
伊奘諾と書いては 種蒔くと読み
伊奘冉と書いては 種を収む
種を蒔き 種を収めて苗代の
水うららにて春雨の 天より下れる種蒔きて
叢早稲の秋になるならば 種を収めん神徳
あらありがたの誓ひやな
ありがたの神の誓ひやな
それ天地開闢のむかしより 混沌未分漸くわかれて
清くあきらかなるは天となり 重く濁れるは地となれり
然れば天に五行の神まします 木火土金水これなり
すでに陰陽相わかれて
木火土の精伊奘諾となり
金水の精凝り固まつて伊奘冉と現る
乱れずに 結び定めよ 小夜の手枕の歌の種蒔きし
神とも今は白波の 淡路山を浮橋にて
天の戸を渡り失せにけり
天の戸を渡り失せにけり
海神(わたづみ)の挿頭にさせる白玉の
波もて結へる淡路島 月春の夜ものどかなる
緑の空も澄み渡る 天の浮橋の上にして
八洲の国を求め得し 伊奘諾の神とは我が事なり
ふり下げし矛の滴り露凝りて 一島となりしを
淡路よと 見つけしここぞ浮橋の下ならん
げにこの島の有様東西は海漫々として
南北に雲峯を連ね 宮殿にかかる浮橋を
立ち渡り舞ふ雲の袖 さすは御矛の手風なり引くは
潮の時つ風治まるは波の芦原の 国富み民も豊かに
万歳を謳ふ松の声 千洲の秋津洲
治まる国ぞ久しき
治まる国ぞ久しき            (抄)

後シテ伊奘諾尊の若々しさ漂う神舞...神さまもあの頃は若かった。

パスカル・キニャール 『アルブキウス』

書く人の情熱は、おあつらえ向きの、あるいは残酷なフレーズが唇にのぼってきたとき、それがいかに不都合な事態を招こうと、どんなに有害なものになる可能性があったとしても、あるいは、それをテクストに挿入すると、ひどく唐突に見えたにしても、それを省くことができない。

アルブキウス

アルブキウス

『辺境の館』と一緒に図書館から借りてきたもう一冊。アルブキウスとは知られざるローマの弁論家。
この本を読み進めるとキニャール氏が書物で何をしたいのかが次第にわかりはじめる。

すなわち、人は自分の言っていることがわからない、人は自分のしていることがわからない。わたしはこの二つの取りつく島もない格言が大好きで、座右の銘にしている。

カエサルが「記した」『ガリア戦記』が記したものは歴史だったのだろうか...歴史と文字が相前後する時間、チャリオットの両輪を何が動かしたのだろう。
パスカルキニャールのやり方はあたかも考古学者が古代遺跡の土くれの中なら取り出した過去の断片を繋ぎ合わせるようだ、足りないピースを補うように。

アルブキウスは年少のころから自分の物語に切断された手を持ちこむ癖があったという。

<切断された手>を物語に持ち込む、そんな記述を現代に持ち込む為にキニャール氏は記述する。切断された手が何を象徴するのかはアルブキウスが物語ろうとしたものそのものだろう。

ということは、コップが割れず、海綿が割れる見知らぬ国へと誘う木の袋に乗せようとする者など誰もいないということではないか?

「第五の季節がある」と彼は言ったという。

かけらしかないところに難破はない。 難破のあるところ、そこにあなたから授かった私の小さな王国があるのだ。ガレー船や帆船にもまして海(メール)を支配するもの、それはかけらなのだ。

《婉曲論法(ドウクトウス・オブリクウス)》言った当人が言ったことを否定する古い表現法。古代ローマ人はこれをひどく嫌い、ギリシアの雄弁家とソフィストにはたいそう好まれたという。

「インファリ」infariというラテン語は、話をしないという意味だった。
生誕から七歳までの「子供」puerは「インファンス」infans、言語を持たぬ者と呼ばれた。
ルクレティウスは、その形容詞の名詞形「インファンティア」infantiaを発語不能という意味で用いた。
「インファンドゥス」infandusとは、それを口に出してはならないという意味があった。
キケロは赤ん坊を「インファンティシメス」infantissimesと呼んだ。
発語不能に近づけば近づくほど、幼年期は回帰する。乳母や母が「言葉を知らぬ子供」puer infansに「お話」fabulaeを聞かせてやるのは、子供が語れるようにしてやるためであり、そして、語る人fansとなり、物語る人fabulorとなり、伝説の人fabulosusとなるようにしてやるためだった。それが人の「ファトゥム」fatum(運命、託宣)なのだ。ローマでは、人々は寓話(ファーブル)に結びつけられていた。

失われた言葉の欠片の収集、
喪失された、あるいは失調する言語を恢復しようとする試み。
パスカルキニャールは「書いている」自身を隠そうとしない。こういうやり方はわたしは好きなほうだ。引用した部分もキニャール氏の言葉とアルブキウスの言葉があるが特に断る必要もないように思う。

パスカル・キニャール

この短い生涯で気づいたことは、死が過去に入り込むと、馬は前に進まなくなるということだ。だから畳んで、ハンカチーフ箱にしまったのだ。

辺境の館

辺境の館

花々の影が欄干にさしていますが、それはけっして花そのものではありません。花々は階段の下、花瓶におさまっております。男は、新大陸に向かうカラベル船のように、自分の欲望のなかに消えたのです。夢見るものが夢のなかに消えてしまうように。

けして長い小説ではない。細部が仔細に記述されるわけではない、のにも関わらず鮮やかな色彩はめくるめく、愛と、欲望と、復讐に関する物語は神話のように物語られる。庭がのこる。

PARIS 三日目

パリも最終日。チェックアウトしたら荷物はフロントで預かってもらい、締めくくりはルーブル美術館
早朝は灰色の雲で地面も濡れていたのが出掛けるころには青空から陽射しが射している。川に突き当たってセーヌ沿いに歩き橋を渡り、ルーブル宮とガラスのピラミッド。

長蛇の列、と思えば意外にするすると列は流れる。セキュリティ・チェック、ピラミッドからエスカレーターで地下のチケット売り場でまた行列にならび、今回はリシュリュー翼、フランドル絵画から始める。フェルメールの横でにこやかにポーズするつわものもいる。小さな額縁、一心に針刺す乙女の針山から零れる糸。レンブラント肖像画、白いレエス襟と黒い衣服、眼の、表情。ホルバインの肖像画、イギリス国王ヘンリー八世の妻の運命は...ヴァン・ダイクの肖像画にも娘がイギリスで親しんだ王や王子がポーズする。
そろそろお昼にしてもいいかもしれない。カフェ・リシュリューANGELINAが入ってるの?じゃあここでランチにしてモンブランも頂きましょう。時間が早めのせいか店内は空いていて落ち着いた雰囲気。娘が好きなクロック・ムッシューをまずそれぞれ頂いて、甘いものはその後で。意外に大きいんですね、二倍量といいますか、レタスも添えていて良いのですが半分にシェアしたら調度良いくらい。ゆっくりいただきましょう。ようやく完食して...どう、お菓子食べられる?モンブランは重いから、フルーツ系のタルトとか、半分にシェアする?苺のタルト一つをシェアしたいので、お皿を二枚頂けますか?英語でOK。真っ赤な苺の酸味と甘味は脳髄に楔を穿つ...風味絶佳。
お次は美神の呼ぶほうへ。


バビロニアの閑散とした展示室、小さな美神発見。
サモトラケのニケの羽ばたく翼、ミロのヴィーナスの白い肩、三美神の、蹲るヴィーナス、弓持つ颯爽ディアナ、尾ある人サテュロス、サンダルを履く大理石、

「おぉ、カノーヴァ...」口々に溜め息漏れるアムールとプシュケの口づけ。
はぁ...そろそろ時間。

PARIS 二日目

ゆっくりめに起きてPAULで朝食。本場らしい雰囲気、パリっぽい女の子がサービスしてくれる。クロワッサンにエスプレッソ。娘はオレンジ・ジュース、ショコラ・クロワッサンにミルクティー
川まで突き当たってセーヌ沿いの道をオルセー美術館まで歩いていく。パリの空は広い。これほどのんびりと広々としたパリを見たのは初めてのような気がするけれど...それもそのはず、子ども二人、特に下の息子は幼くて手を繋いだり離れたりいづれにしても視線は子どもたちに注いでいなければならなかったのだから。日曜日で軒並み店は閉まっている。
大きな建物、駅舎だった建物が見えてくる。以前オルセー美術館に来た時、途中で警報機が鳴り、その為に館内から全ての見物客は追い出されて...その時のことを娘は憶えているという。行列に並んでセキュリティ・チェックを受けチケットを買い、荷物をクロークに預けて。
数々の名画...複数の美術展が一同に会しているようなものだが常時これらが並んでいるのが西洋の美術館の普通のレベルということ。展示の仕方も個々の作品や画家同士の影響関係が見てとれるように構成されている。有難がらなくてもたくさんあるのでどんどん見て回る。

駅舎らしい大時計の存在感。
建物に対称的に配されたもう一つの時計のあるスペースはカフェになっている。

この横のドアから外のテラスに出られる。外の空気、対岸のルーブル宮の屋根も、チュイルリー公園の緑も見える。サン・ペレグリーノの冷たい炭酸で一息いれて...巴里の空の下セーヌは流れる。

まだ、ゴッホゴーギャンもあります...お終いにアール・ヌーヴォーの工芸を見ると、二次元から三次元に帰ってきたみたいでほっとするようでもあり また、一つの全く新しい美意識で室内空間を埋め尽くしてしまう感性に驚き、人間とは何故こうもひとつところに落ち着いていないものだろうと...

そろそろ待合わせの時間。外で待つ、というのか、何もせずそこに居る人多数。わたしたちは人を待っているわけですが...段差に座ったりしている人に近づく制服の...とにかく、座ったりしては駄目みたい(フランスでは)。
姉に連れられて昼下りのカフェ、娘はクレープ・シュゼットに注目、わたしはシンプルにクレープの砂糖がけを。前日に持って出るのを忘れてしまったお土産を渡して、話しの続き。パリの街をぶらぶら散策、姉は翌日からまた仕事もあるし、ジェラール・ミュロの場所を教えてもらい、またね、と さよなら。
ジェラール・ミュロ、どれも美味しそう、でもたくさんは食べられない。キッシュとスイーツを注文してレジで支払いをする間に包んでくれる。キッシュ・ロレーヌ美味しい、林檎のタルト美味。
パリもあと一日...
ママたちの姉妹って親友みたいだね。うん、そうだね。

PARIS 一日目

はやばやと起き出して
ユーロスター
パリへ
北駅から
地下鉄で移動
トランクを引いて
ホテルはルーブルとオルセーに徒歩で移動できる立地、セーヌ左岸のサンジェルマンデプレ界隈。
ひと休みして姉の働くお店に顔を出しに行こうとホテルを出てずんずん歩いて行きますと...あれ?川に出ちゃう、反対方向に来ちゃった。でも、川の方向を覚えておいたら後は楽だからいいのよ(楽観主義的方向音痴)。
パリはロンドンと違って道の交わり方が放射状になっていて...六差路などが多いので...地図と通り名を見比べて...無事到着。賑わう店内でてきぱきと接客、(姉はほんとうに接客が好きなのだな)。仕事が終る時刻までリュクサンブール公園でのんびりしましょうか。お店を覗いたり書店を覗いて(全ての分野の本が全てフランス語で書かれているなんて!)、古書店の店先のワゴンを物色、ドゥルーズニーチェ2€、デカルトの書簡2€、モーパッサン3€也。
ぐるりを鉄柵で囲まれたリュクサンブール公園を入る。土埃と夏の暑さで咽喉がからから、売店で炭酸飲料を買ってベンチに座り咽喉を潤す。もうちょっと行くと座れない芝生があるわよ。中央は花壇、そのぐるりを囲む通路でもあるくつろぎのスペースは砂利にモスグリーンのアイアンチェア。遊ぶ子供、寛ぐ大人に若者に老人、老若男女は夏服で夏の終りを謳歌している。その周りを囲む緑の斜面に座る人ちらほら。座ってる人もいるわね、座っちゃう?でも駄目なのよ、ここに座りましょうよ。芝生を囲む鉄の棒に座る、上手に座れば痛くない。

鮮やか色のワンピースの女の子、ポロシャツに短パンの父親を見上げて話しかける、母親はゆったりと椅子に腰掛けている。アイアンチェアをガラガラと引き摺って円をつくり歓談する老人たち。帽子に白シャツの制服の男がすたすたと歩み寄り、芝生に座る人に注意する。(ほらね、あぶなかったでしょ)
広い空を行く飛行機が縦に横に斜めに白線を引いている。夏服を持ってくるべきだったのね?すっかりパリの休日に馴じんだところで来た道を引き返して待ち合わせ。まだ陽は長くとても暑い。
カフェの落ち着いた二階に席を取る。つもる話、懐かしい子どもの頃の記憶の照合。歳が四つ違うから姉妹の見たものは印象や意味の深度が違う。シロツメクサで花環を編んで、誰かが蜂に刺された話。ピサネロやピエロ・デラ・フランチェスカの話...
カフェを出て夜もパリは賑やか、美味なるジェラートで締めて。